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[346] |
昨日の薔薇は |
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par Miranda |
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昨日のことではない。その前の日、金曜日のことだ。何気なくも、さりげなくも、受け取ったということだろうか。いまに思えば、時間を過去に戻したい。二年前にまで戻す必要があるのだろうか。しかし、時間が戻れたとして、同じことになるのではないのか。
癌の告知を受けた訳ではない。あと半年のいのちだと告げられたのでもない。いつまでのいのちか、それは語られていない。しかし、わたしは決断しなければならない。どちらを選んでも、未来に希望はない。あるいは希望を維持するためにも決断しなければならないのか。
決めなければならない。選択すべきことはしかし、後悔することではないのか。選択しなければ、それも後悔となるのか。
さりげないことのようにも語られる。しかし、結果は恐ろしいと思う。いのちがなくなる訳でもなく、改善されることなのだが、しかし勧められてはいないようにも解釈できる。わたしはどうすればよいのか。
二年前のことは緊急性があった。検査をしてみてその結果次第では、わたしの意志で決断するとか選択するとかではなく、その道を選ばざるを得ないことであった。さもなければ、いのちに関わっていた。それは、それ以上の決断は必要がない結果だった。
しかし、このことはどうなるのか。すぐには答えは求められていない。しかし選択しければ、未来の結果が分かっている。何時、選択するのか。
そして恐ろしいことは、生と死を決する定めは、このように突然に訪れると言うことである。キューブラー=ロスは亡くなったが、彼女の主題は普遍的にある。昨日の薔薇はどこに行ったのか。明日、否応無い、いのちの定めを聞かされる存在のありようなのか。
昨日のことではなく、23日は金曜日だった。一年前に行くべきだったのか。一年前だと答えは同じではないのか。どこかかに別の答えがあるのではないかというはかない希望があるが、しかしそれを検索で調べる気になれない。まだ猶予はある。しかし、半年後は? 二年後、五年後は? どこかで決めないとならない。
運命の灰色の翼はある日、突如落ちてくる。突如ではなく、ただ無知故に知らなかったのであろうが。
「知ること」は責任を意味する。仮に、あと数ヶ月のいのちだと告げられて、どう受け入れるのか。「受け入れる」ことが選択であり決断ではないのか。
わたしは、春の花のもとではなく、秋の冷たさを持った風の野で、秋の花々のなかで身を横たえたい。わたしには雲は青空のなかにもはや見えないが、昼の星を見上げているとき、意識なく、決断や後悔とは無縁で、「知ることなく」去って行きたい。
不安や後悔や選択の苦悩なく、空を見上げて、秋の冷たさの風のなか、野の花々のあいだで眠りが訪れるとき、それが再び目覚めることのない眠り、魂の安らぎという「無」への孤独であることを願いたい。
> 昨日の薔薇はただその名のみ、空しきその名もいまに残らず
願えるなら、一昨日の前に帰りたい。二年前の以前に帰りたい。そして知ることもなく、予見することもなく、眠りに入り、この世を去って行きたかった。
すでにこの世を去ってしまっていれば、不安も恐怖も選択も後悔もない。そして死や死の宣告の訪れをおびえることもない。すでに世を去っていて、わたしはいないのである。何も恐れることも怯えることもない。
何時の日か夢はふたたび花のつぼみとなる。永遠は、人の救いであることを願う。
/* Miranda */
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| 2010/07/25 (Sun)/07:01:56
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[345] |
生と死を超えて |
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par rain |
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人は生死(の妄執)を越えて、彼岸へ至ると私は理解しています。
人は多くの事を思い巡らすが故に、かえって多くの事に縛られてしまう。
しかしながら、思いめぐらすことが初めからないのであるならば、何をもさとる事ができないだろう。
思い巡らして後、肝要のもの(秘術=技=ツボ)だけを会得して、雑多なものは捨ててしまって良い。
ところで其の秘術とは何か?
秘術とはまさに、肝要のものだけを残して他は捨て去ることを言うのではないでしょうか?
ひとはまさにこのことによって苦しみを捨てて、目を浄らならしめて、世の真実をあきらめる(=あきらかにする)のであると思います。
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| 2010/02/26 (Fri)/23:55:32
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[344] |
I Have Nothing |
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par Miranda Noice Welrech |
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「 I Have Nothing 」とは、「わたしには何もない」という意味であるが、わたしには何もないことはない。しかし、根本的な何かがない。それは若い頃は持っていたものかも知れない。あるいは持っていると錯覚していたものかも知れない。
いまのわたしにあっても、色々なものを持っている。この肉体や魂や意識や記憶がある。物質的な物象として、書籍やその他のものがある。しかし、根本的に重要なものは何であるのだろうか。仏陀釈迦牟尼は安らぎの境地にあったと原始仏典は伝えている。原始仏教は、大乗仏教、密教へと展開するにつれ、妄想の要素が増えていった。釈迦牟尼の安らぎとはつまるところ、「何も持っていない」従って、失うものも何もなく、失って悲しむものも何もないという意味ではないのか。
知恵は知るものであるとか、感じるものであるとか、戯言に過ぎない。グノーシスの知恵とは、そもそも「知る」ものなのか、「感じる」ものなのか。どちらでもないであろう。それは「気づき」だと述べた。世界認識の落差あるいは視野転換である。世界とはこのようなものではなかった、と知り、感じ、直覚し、そして「見る」のである。では「どのようなもの」なのか。「そうではなかった」というのが答えである。
「そうではなかった」というのは根源的な違和感である。グノーシスは孤独にあり、そこから何かの知識や利益が得られるわけではない。この世界はわたしの世界ではなかった。ではわたしの世界はどこにあるのか。「どこにもない」のである。
まぶたの背後にわたしたちは様々なものを見ることができる。目覚めていて夢を見ることも可能であり、それは広い意味で意識が世界を張っていることを意味する。つまり、この現実の地図がある世界があるが、この地図世界に加えて、意識はもっと広い、錯綜した地図の世界を心に持っている。夢のなかで、わたしはこの地図の世界のなかでしばしば同じ夢を見る。何時か記録しようと思ってできないままに忘れてしまった多くのことがあるが、それは夢のなかの地理であり地図についてである。
この現実の世界の地理と似ている点があるがしかし、また異なるパターンの地図世界が心にある。わたしはしばしば、別の家、別の部屋がわたしのものとして、あるいはわたしが住んでいる場所に存在している夢を見るが、別の場所に移動したいというわたしの願いの表現なのかも知れないし、実際に夢の地図では、そのように広い空間がわたしにはあるのかも知れない。また、懐かしい鉄道路線や、山道や池などが夢の地図のなかにある。
わたしはそして、この今になって思う。死は無である。そしてわたしは死の向こうの無へと帰って行きたい。死は経験できる。経験できないのは、死の経験を認識することである。人は死ぬことができる以上、死はその経験のなかにある。他方、二十年前の過去の世界に行くことはできない。物理的な構造から、あるいはそういうことが可能なのかも知れないが、現在における認識や知識では、そういうことはできない。つまり、二十年前の過去の世界に行くという経験は決してできない。しかし死は経験できる。
死は色々な意味で「恐怖」である。死を恐ろしくないという人は何かが麻痺しているか、認識に欠如が生じている。死の間際になって、自己の死よりも、より重要と思えることに心が囚われているとき、人は死を恐ろしいとは感じない。しかし、それは別のものが意識や認識の視野を覆っているのであり、死の認識が失われている状態である。心を覆うものがない状態で、死とは何かを認識し、覚知し、この現実の意識にあって、ハドリアヌスが述べたように、眼を見開いたまま死んで行こうと思うとき、死を人は忘れて死ぬのではない。
死は恐怖であり、苦しみだと言える。しかし他方で生きてあることも苦しみである。生きていることには、希望や喜びや快楽もまたあるであろう。人は、生きることの希望や喜びと、生きることの苦しみや矛盾や悲惨との相克のなかで生きているといえる。単純に決まる訳ではないが、ポジティヴな生きる意味と生きることの否定的面のどちらが強いかが人が生き続けようと思うかどうかを決めるとも言える。
わたしは、死は恐怖ではなく、死のうと思えばいまでも死ねるという認識を得た。それは一年前のことか数年前のことか知れないが、死は経験し過ぎ去るものである。それだけに過ぎない。しかし、死の重要な面は、ひとたび死ぬことで、元には戻らないという事実である。知る限りにおいて、すべての歴史のなかで、人はすべて死んでいった。わたしは若い頃から仏教が嫌いであった。その理由は、釈迦牟尼のような偉大な人の前で祈り哀願し、死から逃れる方法を尋ねても、釈迦は「死は自然なことです」としか答えないことが分かっていたからである。他方、妄想のキリスト教は「神の恵み、永遠のいのち」などを語る。
死は過ぎ去って行くものである。死の向こうは無である。無とは、意識は死の経験を認識できないということを意味する。死のときを選ぶことは重要である。この世に何かが残っていると思う場合、それを片づけてから死ぬべきとも言える。また他方で、生の喜びや苦痛や意味や無意味と、死の後退できない無が、比較されるとき、生よりも死が望ましいとき、死を選ぶのは妥当である。生きている限り生きていたいというのは、死が定めならば、或る意味では、浅ましいとも言える。
世界の美しさや意味と、世界の悲惨さや屈辱を較べて、死がより望ましいなら、人は死を選ぶのが望ましい。世界と人間は醜く悪に満ちているが、世界はまた美しい。
これ以上に生き続けて何を求めようというのか。何も求めるものも期待するものもない。生きていることに何もない。世で成功した人は死後に天国に行くのだろうか。天国などは死のかなたにはない。もしそういうものがあるなら、死の向こうに、死の経験を認識できるわたしが存在することになる。それもまたありえるかも知れない。
しかし、そういう思考はどうでもよいことである。それは想念であり、生きているあいだの夢幻である。人は必ず死ぬのなら、死を選ぶにときが意味を持つだろう。わたしはこの世に何も残すものはない。死の向こうに行くとき、死の向こうにあるわたしを想像し、この世界がどうわたしを評価するか、そういう空想を弄ぶときは過ぎ去ってしまった。人類も永遠に存続する訳ではない。
わたしはなお色々と経験することがあるのだろうか。どれだけの経験を重ねれば人は十分な経験を積んだと言えるのか。どの段階であろうと人は生きてきたままに生きていた。死は一つの跳躍に過ぎない。灰羽のラッカが落下したというのなら、一歩で落下である状況がある。その先には、死があるに過ぎない。そして死を恐れる理由はない。誰も彼もが死ぬのではないか。(そう。死は生理的恐怖である。「この認識主体がなくなる」。恐怖ではないのか。この認識主体がなくなる。それがまた苦しみからの解放であり、喜びなら、死は別の位相を持つであろう)。
/* Miranda Noice Welrech */ |
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| 2010/02/26 (Fri)/04:36:50
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[343] |
ありがとうございます。 |
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| [Reply] |
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par mokume |
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パラマハンサ・ヨガナンダや佐保田鶴治先生も知っています。本も読んだことがあります。そたほかの方も本を読んだぐらいですが、知っています。
とてもすばらしいと思います。
このように掲示板に書き込むことはめったにないのですが、ラワット氏がグノーシスについて話していたことがあったので、「かつて神のスパークを感じる・・・」と。それがきっかけで、こちらのサイトに行き着き、投稿させてもらった次第です。
智慧を知るのではなく、感じる。同じ時代に肉体的に生きている師を探している方がいらっしゃるならお知らせしたいと思ったまでです。
コメントをくださりありがとうございました。いつか気が向いたら彼の話を聞いてみてください。
なお、ネガティヴな意味ではありませんが、今後こちらに書き込むつもりはありません。
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| 2010/02/07 (Sun)/19:53:58
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[342] |
こんな本を買ったのだろうか−その他色々 |
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| [Reply] |
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par Miranda Noice Welrech |
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Amazon からメールが来て、あなたの購入された本についてレビューを書きませんか、とか言ってきているので、「何の本のことか」と思い見ると、次のような本である:
>Ancient Gnosticism: Traditions And Literature (購入日: 12/23/2009)
>ゲルマン神話―北欧のロマン (購入日: 01/06/2010)
この日付だと、一ヶ月か少し前に購入したことになりますが、こんな本を購入した記憶がないので、不審に思ったのです。しかし、本のタイトルとサンプルの写真を見ていると、両方とも記憶にあり、確かに見た記憶があるが、購入したのだろうかと思いました。しばらく考えていると、どうも購入したらしいという考えに収束しました。では購入した本はどこにあるのか。……どこかにあるのだと思いますが、もしかしてアマゾンから品物が来て、そのまま開けていないのかも知れない。
何か記憶がもうおかしくなっているという思いです。また、これとは関係がないですが、あるサイトの英語の案内のようなものを日本語に翻訳するよう頼まれているのですが、英語として内容がよく分からない。書いている人が、英語が母語ないで人なのです。文章にタイプミスがあり、綴りが間違っていて、文法的にもおかしいような気がしました。このような文書を、何時、訪問しても、100人を超える人がそのサイトを閲覧しているという、かなり有名なサイトの公式案内文書に置いておいてよいのかという疑問もあります(ここのサイトは、一週間前に、百万オーダーでの節目が間もなく訪れる数字だと思っていると、一週間で、30万閲覧になったので、いささか驚いたということがあります。一週間で、30万閲覧だと、年間で1500万閲覧になります。サイトが充実してきて、加速度的に閲覧者が増えているとも思います)。
その人には別の文書で、you had better to re-write とかメッセージを書いたのですが、どうも英語としておかしいのではないかと疑いを持っていました。知り合いの、これは英語がネイティヴでアメリカのどこかに住んでいる人に、文書を送って、アウトラインは分かるが、細かい部分で何を言っているのか分からないので、助けてほしいとメールを送ったところ、返答が来て、結論で、「お役に立てなくて申し訳ない」……やはり「細かい部分で何を言っているのか分からない……筆者に尋ねるしかない」という答えでした。
やはり、英語そのものがおかしい。ネイティヴが読んで意味が分からないのですから。
何か意味のない話を書いてしまったようです。しかし最近ツイッターというのがはやっているようなのですが、実体を知らなかったが、どうも一行か二行の「つぶやき」を書く、ブログよりも更にお手軽で内容なしのサイトのようです。内容なしと言っても、それで「ある情報」を確認できたということがあるのですが。しかし、最近は、Google も検索の役に立たなくなってきているような気がします。意味のあるページが上位に来ない。ブログとか、ハテナの「まだ何の記述もありません」というようなページとか、何年も前のキャッシュとか、SEO の効果というか、意味不明な状態になっているような。
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Google のことを書いたので、 それとも関係して、以下の「mokume」さんにコメントさせて頂きます。まず、最初に見たとき、マルチポストの宣伝スパムだと判断しました。しかし、一応、Google で検索して調べています。現在だと、ヒット数が500と少しで、類似ページ除外だと、70程度しか出てきません。また「どういう人を紹介しているのか」も一応確認しています。
「世界平和」を説いて、世界中、80カ国か40カ国か、講演して回っているという人のようですが、わたしは興味がない、というか、そういう宣伝しないと誰も知らない人などはどうでもよいというのがあります。
30年ほど前には、バグワン・ラジニーシがいました。彼の最盛期は一体幾人の信者がいたのか。また、「理性のゆらぎ」という本が出されているサイババもいました(いまも存命だと思いますが)。カルロス・サンタナのレコードに、「形而上的瞑想」と称する文章の四行分が引用されていましたが、筆者は、パラマハンサ・ヨガナンダです。こういう人をご存じですか。日本には、佐保田鶴治という先生がいました。インド哲学の研究者で学者で、ヨーガの実践者で、グルであった人です。あるいは、沖先生という有名な先生もいました(沖氏は、確か、プールで泳ぐため、飛び込んだところ、心臓麻痺だったか何かで亡くなったと記憶しています。あれだけ修行を積んだ先生でも、あっけなく死ぬのかと思ったことがあります。ヨーガのグルだと、90歳になっていまだ元気で、教えを説いているというようなイメージがありましたが、人間の運命は分からないものです)。
いや、もう少し古いと、かのパラマハンサ・ラーマクリシュナがいます。ヴィヴェーカナンダもいました。パラマハンサ・ラーマクリシュナは、ロマン・ローランが伝記を書いていますが、ともかく「偉大だ」としか言いようのない聖者でした。もしも、智慧を知りたいのなら、ラーマクリシュナの語録集でも読む方がよほど為になるでしょう(著書はありません。ラーマクリシュナの信者の学校の校長とかが記した語録集が残っています。またラーマクリシュマ・ミッションはいまでも世界中で活動しています)。
もっと古くは、そもそも釈迦牟尼こそ偉大な人でしょう。ナーガールジュナもいましたし、唯識派の偉大な教師もいました。
「魂のグル」としては、釈迦牟尼やナーガールジュナや、プラトンやソクラテスやアウグスティヌスなどがより素晴らしいです。
つまり、この掲示板にURLや名前を書き込むと、一ヶ月後か、もっと早い時期か分かりませんが、ロボットがやってきてキャッシュを集め、すると検索でヒットするようになります。そういう宣伝目的で、この掲示板に何か書いてほしくないということです。紹介とは別に、書き込み自体に内容があれば、あるいはどなたか紹介された方が、わたしが調べてみて、納得の行く方なら、別に削除は致しません。再度、検索で調べてみましたが、どう考えても、わたしはそういう人の宣伝に納得が行かないと言うことです。かつてわたしの知り合いは、「聖なる人の前に立つと、自然と頭が下がってきて、身を低くするようになる」と言っていましたが、そういう先生は大勢います。
私見で申し訳ないですが、ロマン・ローランの小説とか、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』でも読む方が、よほど為になると思います。Vita brevis(人生は短い)と言いますが、日本だと、道元もいましたし、沢庵和尚もいました。バグワンは晩年「オショウ」とか名乗ったようですが、どこが和尚かとも思いますが。「魂のグル」あるいは「祈りを献げ帰依する対象」……それは神でも、天でも、月でも、その辺の小石でも何でも良いと『ヨーガ根本教典』の初めに書かれていますが、智慧を汲み取ることのできる教えは、ガンジスの砂の数より多いのです。智慧ある人は奇蹟的に少ないのかも知れませんが(釈迦が生まれたとき、幼子の釈迦に出逢ったある仙人は、この子が成長して悟りを開き、その教えを説くときまで自分は生きられない……世に現れるのが、数千年に一度かそれより稀な、聖なる教えに自分は触れることができない、と言って涙を流したという伝説があります)。
しかし、自分自身の智慧のなさを思い至れば、智慧ある人は、周囲に幾らでもいることでしょう。わたしは、そのように他の人の崇高さを遂に理解できないままのわたし自身の愚かさに、生きてきたことの空しさを感じるとでも言います。「師」と呼べる偉い先生に数多く会って来たような気がします。バグワンについて語りながら、いまや時代が急速に変化しつつある、何が真実かが明らかになって来ている、と述べていた人がいましたが、それは25年前のことです。確かに時代は変化して、インターネットというような、そもそも30年前のSF作家も科学者も誰も述べたことのないようなものが現に存在しています。コンピュータが意識や知能を持つようになるという話はたくさんありましたが、現在の世界の文化状況は、当然に誰も予測できなかった。
あまり色々と書くと、問題もありますので、何か意味不明な文書ですが、終わりにしたく思います。智慧の本は多数あり、師と仰ぐことのできる人は意外に身近にいるということです。ただ、後になって気づくことがある。また、間違った人を師と考えると、どういうことになるのか。しかし、わたしは驚きをまた感じる。ユングの言葉が元なので、ユングの言葉として、彼は「真に老いる」ということを述べていた。「年老いることで、智慧の光が輝く」と。(そういうことをユングが述べているのではないが、パラフレーズすると、そういう意味になる言葉をユングは述べています)。
「智慧は老いと共に訪れる」……こう意訳されていた詩が、イェイツにありますが、イェイツは若い頃は、ロマン主義で、アイルランドの情熱的神秘主義で、非常に美しく謎めいた詩を書きましたが、晩年になって、若き日の空しき虚栄というようなことを記しました。
つまるところ、わたしは、「救済」などないと思っている。しかし、ないと思うので、救いはあるのです。智慧ある人や、智慧は、探せば至る処にあるのです。偉大な人、聖なる師というものが知りたいのなら、釈迦牟尼に帰依し、ナザレのイエスがゲッセマネで祈った言葉を思い返し、晩年はネクタイなども外して裸で暮らしたガンディーの自伝などでも読まれることです。無名の青年だったヴィヴェーカナンダが、世界宗教者会議で演説するや、出席者はその言葉に感動して、ヴィヴェーカナンダの聖なるグルであるラーマクリシュナは、世界的な聖者として認識された。智慧は身近にあるが、智慧への道は遠い。学問に王道はなく、智慧の探求にも王道はない(念のために。「王道」というのは、「王が通る道」というような意味ではなく、「王が造った道」の意味で、ペルシア帝国の大王が整備した大街道が、当時としては驚異的な速度の旅行や通行を可能にしたので、従来は、進むに困難で時間のかかった旅程を、短縮する早道という意味です)。
何か支離滅裂な文章ですが。これで終わりにします。
/* Marie RoseAnne et Joan Charllipe */ |
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| 2010/02/07 (Sun)/17:11:38
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[340] |
削除されてしまったのしょうか? |
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| [Reply] |
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par mokume |
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昨日プレムラワット氏をご紹介させて頂きたく投稿しましたが見当たらないので再度投稿させていただきました。こちらの掲示板に来ている方のなにかヒントになればと思いまして。
彼はノレッジといわれる実際的な方法を教えてくれます。
考察ではなく、感じる方法です。よかったら一度ネットで彼の話を聞いてみてください。プレムラワットとてもシンプルに話しています。 |
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| 2010/02/07 (Sun)/09:52:42
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[338] resp>337 |
Re:Mirandaさんへ |
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| [Reply] |
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par Miranda Noice Welrech |
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こんにちは、rain さん
> 私は、頭の良し悪しや、精神世界の深化が、安らけく境地の前提や、条件、あるいは因となるのであろうか、疑問があります。そしてそれらは、全く影響を及ぼさないのではないだろうかとさえ思えます。
そういう意味のことを記したのではないのです。わたしは若い頃に知的好奇心と野心があった。非常に簡単に言うと、素粒子物理学の分野で何か新しい理論を造りたかった。しかし、それには非常に高度な「頭脳」が必要で、愚かなわたしは、そんな簡単なことにも気づかなかったということです。しかし、いま歳月が経て、この単純で自明なことが、ようやく正面から理解できた、自分で納得できたということです。
「精神世界の深化」もある意味で、知的好奇心や野心と同類のものだと思います。それを求めて得られる人もいるが、これも「恵み」でしょう。「精神が深化」すると、逆に、そういうことはどうでもよいと言うことに気づくのだとも思います。エクスタシーの体験や神秘体験などについて、それで自分が何か特別な存在、何かの秘密を知ったエリートのように感じ考えるのは、間違いだと、色々な書物や人が述べています。わたしは文章を次の言葉で結んでいます:
>しかし、あれは頭がよくないと理解できない。わたしの頭では無理だった。しかし、それを後悔はしない。精神の霊妙さは、限りない。主は恵みの主である。
理論物理学は、実際に「頭がよくないと」理解できないのです。しかし、それができるほどに「頭がよかった」として、それが何か意味があるのか。日本のインターネットでは何か顕著に思えるのですが、「馬鹿は氏ね」とか「頭の悪いやつは消えろ」とか、何か他者を排除することばかり考えているいる人が大勢いるように思えます。そういうこと自体、醜いことだし、何か意味があるのか。幾ら頭が良くても、「馬鹿は氏ね」とか平然と言うような人は、わたしは、どうでもよい人だとも思います。
>しかし、それを後悔はしない。精神の霊妙さは、限りない。主は恵みの主である。
これは、わたしは「馬鹿だったことが今分かった」。わたしの試みようとしたことは、ある意味で、わたしの力量を遙かに遙かに、無限に遙かに超えたものだったといまは分かる。「しかし、わたしは自分の人生を後悔していない」という意味です。
知的好奇心の満足や、世俗的・社会的な成功などは、「精神の霊妙さ」に較べれば、どうでもよいことである。
「身体障害の人や、精神の障害のある人や、色々な理由から、社会に貢献と言えるようなものが困難な人がいる。ある種の人の主張では、こういう人は、社会の屑で、生きている必要がないので、はやく氏ね、ということらしいが、そういうことは違うのではないのか」という趣旨の文書が、Khoora Mirandaas の方にあります。
>主は恵みの主である。
「主」というのは、キリスト教などの神ではないのです。自分自身の内部にある「救済と意味」の原理です。そういう難しい表現を使わなくても、「救ってくださる有り難い何か」がおられるということです。「アメージング・グレイス」で、そういう趣旨のことを書いたように思うのですが。
> ある種の、現実世界からの遊離として精神世界が著わされたのであるならば、いまいちど自分自身に立ち戻って、その本当の事物について考察するのがよいのではないかと思います。
「死や永遠は、いま生きている生のなかにある」という言葉は、「現実世界」とは別の「精神世界」とかを考えているのではなく、現実世界は、より広大で深い世界の一部だということで、我々に見えているもの、あるいは、我々が「これが現実世界だ」と思っているものは、実は、よく「現実」が見えていない。「死後は無である。死後は無でない、どちらも真理である」というのは、現実世界での死とは別に、精神世界での死後の生があるということではなく、「広い意味での現実」というものは、我々の日常考えているものとは違っているというようなことです。そもそも、「現実世界」つまり、人がいて、海や山があり、動物や植物があり・いるこの世界が存在すること自体が、信じがたいような奇蹟ではないかという認識があります。
わたしは、ウィリアム・ワーズワースの詩が好きですが、彼は、自然や宇宙との感応のなかに、奥深い感動があるとうたっています。別に、超越的な神がいるとか、精神世界があるとか言っているのではなく、自然と感応すると感動が起こると言っています。「現実世界」というのは。何も人間の社会だけのことではなく、「広義のこの世界・宇宙」のことです。
> よろしければ、又立ち寄らせてくださいませ。私も、安らぎを知りたいと思うのです。
「安らぎ」を得たいのは、実はわたしの方です。若い頃、『旧約聖書』の『伝道の書』を読んで、年老いて空しさを嘆くのは、それこそ空しいので、若い頃に充実した人生をおくれ、そうすれば年老いてから、人生は空しかったという思いからは離れられる(可能性がある)という言葉を読んで、その通りだと思ったのです。しかしいまや年老いて、「人生は空しかった」という事実しかないので、これをどうするのか。
わたしは、負け惜しみではなく、空しかったという事実を受け入れよう、空しくないという人を羨ましいとは思わない。従って、「後悔はしていない」のですし、「主は恵みの主」なのです。
ただ、そこまで自覚できても、「心の安らぎ」は難しい。とはいえ、この数ヶ月、あるいは一ヶ月のあいだにも、「後悔はしていない」という認識に立つことができたのは、それでよかったと思っています。今後もよろしくお願いします。
/* Miranda Noice Welrech */ |
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| 2010/02/01 (Mon)/18:22:54
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[337] |
Mirandaさんへ |
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| [Reply] |
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par rain |
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私は、頭の良し悪しや、精神世界の深化が、安らけく境地の前提や、条件、あるいは因となるのであろうか、疑問があります。そしてそれらは、全く影響を及ぼさないのではないだろうかとさえ思えます。
ある種の、現実世界からの遊離として精神世界が著わされたのであるならば、いまいちど自分自身に立ち戻って、その本当の事物について考察するのがよいのではないかと思います。
よろしければ、又立ち寄らせてくださいませ。私も、安らぎを知りたいと思うのです。 |
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| 2010/02/01 (Mon)/15:42:49
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[336] |
去りゆくのが人の定めか |
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| [Reply] |
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par Miranda Noice Welrech |
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わたしは世のなかから隔絶した生活を送っているというか、どこか人のいない山奥にでも住んでいるような気がしない訳でもないが、インターネットがあるため、オンラインでニュースなどは一応見ている。
昨日のある時点だと、トップニュースになっていたのは、サリンジャーの死であった。サリンジャーはまだ生きていたのか、という思いと、他方で、訃報は聞いたことがないので、逝去のニュースがあってもおかしくはないという思いがあった。91歳であった。1918年生まれだ双であるから、当然この年齢である。死因は報道されていなかったが、まず老衰だと考えて自然で、その他の病死・事故死であっても、老衰で死去しておかしくない年齢である。
「Catcher in the Rye」で有名となったというか、これがサリンジャーの代表作であるというのは間違いがない。この作品は、1951年か52年頃に発表されたようで、いまから60年前である。サリンジャーが30代初めの作品になる。
わたしはこの作品の本は何度か購入している。しかし、何故か読む気になれず、結局、この作品は読んでいない。(何度も購入しているというのは、例えば、アルベール・カミュの『レトランジェ(異邦人)』や『シジフォスの神話』もそうである。『レトランジェ』の方は一応読んでいて、再読したいと思って文庫本を買い直している。リルケの『ドゥイノの悲歌』も、再読しようと思って最近文庫本をまた購入したが、再読していない。
それはとまれ、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』は読んでいる。この本と9個の作品(短編)を読んだとき、その作品の構築力というか執筆力の高さに驚嘆した記憶がある。こんな驚異的に上手な作家は、見たことがなかったというのが率直な感想である。海で幼い妹か姪か、少女と水遊びした後、部屋に戻って、頭に一発銃弾を撃ち込んでシーモアは自殺した、という話(「バナナフィッシュ」というタイトルだったのか)は、普通だと、「話が終わっていない」というのが感想になるが、サリンジャーの話は驚愕させる内容である。サリンジャーはこの後、シーモア四部作を書いたとか聞いているが、それは読んでいない。人が自殺する話は、フォークナーの何とかという作品にあるが、これも何か恐ろしい感じがしたが、サリンジャーの話は、ただ「凄い」としか言いようがなかった。いまにしてそう思う。(フォークナーで思い出したのは、『サンクチュアリ』の最後は、冤罪で絞首刑に決まったポパイが、後ろ手に縛られ、首に縄をかけられた状態で、顔の上に髪がかかるので、「髪をのかしてくれ」と言うと、保安官が隣にいて、「おお、いまのかしてやるぞ」と言って、その瞬間に、ポパイの足下の板がなくなった、という話であるが、ポパイは何を考えていたのかとも思う。もっともフォークナーの作品には、おかしな人間が多数出てくるので、これもその一人でよいのかも知れないが)。
スタニスラフ・レムは亡くなった。アーサー・クラークも亡くなった。アイザック・アシモフが亡くなったのは、かなり前である。人間の精神は不滅である、または少なくとも肉体・物質とは別の実体で、肉体の死は、精神の死を意味しないと述べていた・研究していたジョン・エックルスも気づいたとき、すでに逝去していた。死後の生はあるとか、ある意味で、いい加減なことを述べていた丹波哲朗も亡くなったが、死後の世界に無事にたどり着けたのだろうか。
『死ぬ瞬間』の著者であるエリザベス・キューブラー=ロスは、自身、臨死体験や不思議な体験を多数経験しており、「死後の生はある」という本まで書いているが、彼女も故人である。
意識あるいは精神の起源は、物理学的には、量子力学的な量子の場か、それより深い構造にあると思えるが、「場」であることは間違いがない。「ベルの仮説」とかはどうなったのだろうか、といまになって思うが、超光速というのは別にない訳ではない。大学時代に、誰か忘れたが、物理学の教授に尋ねたところ、「あるだろう」と返答をもらったが、別に当時は不思議なことでもなかったのだと思う。核融合の可能性に関する話が主題となっていた講義を聴いたことがあるが、最先端の研究の話で、細かいことはまったく分からなかったが(これは、その先生について研究者となると恐らく分かるのだろうと思った)、その話では、核融合実現まであと一歩というような感じであったが、未だに実現していない。(というか、理論的には可能であるが、採算が合わないので、核融合発電は現実化しないのだという話をどこかで聞いた気がする。多分そうなのだと思う)。
それにしても、素粒子生成・消滅の行列演算子とか、いまはどうなっているのだろうか。30年前だと、素粒子は、電荷とかパリティとか、色々な属性の波動関数の重ね合わせ(線形積)で表現されていた。クォークの理論はわたしは学んでいない、というか難しくて理解できない。超弦理論とか結局どうなったのか、不明である(わたしが知らないだけである)。
物質創成の理論を提唱していたフレッド・ホイルは恐らくすでに故人だろうと思う(確認していない)。ホイルの理論は否定されたはずであるが、この理論を使ってサイファイ(SF)を書いていたのが、宇宙都市シリーズのジェイムズ・ブリッシュである。ブリッシュはかなり以前に癌で逝去した。
サリンジャーの死を契機に思い返してみると、「昨日の薔薇はただその名のみ、空しきその名がいまに残れり」というのは中世の話ではなく、いま現在の話だと思える。光瀬龍も亡くなったし、今年に入って、柴野拓美(こんな字だっただろうか)も逝去した。
ソクラテスもプラトーンも亡くなった。釈迦牟尼も亡くなった。ラーマークリシュナは確か喉頭癌で亡くなったと思うが、死の前にヨーガの修行者が訪れて、「聖なる人はみずからの寿命を延ばすことができるはずであるが」と尋ねたところ、ラーマークリシュナ・パラマハンサは、「できる。しかし大聖母(マー)がわたしを呼んでいる。寿命を延ばす訳にはいかない」と答えて去って行ったとどこかで読んだ。
「人は死ぬ定めにある」というのは真理なのか。真理であるが、死後はどうなるのか。人は死と共に、一切が無となる、と言ったのはバートランド・ラッセルである。ラッセルは唯物論者ではない。釈迦牟尼も唯物論ではない。二人は同じことを言っているのかも知れないが、文化や時代の文脈が違うと別のことに聞こえるのかも知れない(それとも、ラッセルは唯物論者だったのか)。
人は死後に無となる。人は死後に無となる訳ではない。実はどちらも真理である。生と死は、我々が生きてあるとき、すでに生のなかに存在している。永遠はこのいまにある。そう言ったことを、より明確に理解し、理論化したかったと思うが、わたしの身にあまることであった。わたしは傲慢であったとは思わない。知的好奇心があったに過ぎない。わたしは元々、理論物理学、素粒子物理学を目指した。意識の謎は、素粒子構造の更に底にその構造があると考えたからである。しかし、あれは頭がよくないと理解できない。わたしの頭では無理だった。しかし、それを後悔はしない。精神の霊妙さは、限りない。主は恵みの主である。
/* Miranda Noice Welrech */ |
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| 2010/01/29 (Fri)/20:18:13
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[335] |
「薔薇の名前」と人のレーベン |
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par Miranda Noice Welrech |
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どうも変なタイトルですが、映画の「薔薇の名前」について思うことを少し記しておきたく思います。
この映画は非常に印象が深く、セルゲイ・ボンダルチュクの「戦争と平和」と同じぐらいわたしは影響を受けたと前に記しました。その影響は、音楽の美しさにあった、と簡単に記しました。どういう意味なのかです。何故、この映画はそれほど印象が深く影響を受けたのか、「音楽の美しさ」というのは象徴的な言い方だといま記します。この映画は、「ロマティックだった」というのが、印象の別の言い方です。ロマンティックであるというのは、これは恋愛の話でもあるからです。メルクのアドソが生涯にただ一度だけ女性と愛し合った、そのただ一人の女性とは、名も知れぬ貧しい農民の娘であって、修道院の修道士レミージョに食物と交換に性的な相手をしていたが、アドソを人目見て愛した、という話です。アドソも彼女を愛したが、映画のなかでは、図書館が焼失した翌日、アドソと師ウィリアムは、驢馬に乗って修道院を後にしますが、途中で雪のなかに、少女がたたずんでいて、アドソを待っています。アドソは彼女の手を取り握るのですが、師バスカヴィルのウィリアムが驢馬を進めるのを知り、静かに彼女を手を離し、彼女を後にして師のついて行きます。このときの音楽が非常に美しいのですが、サウンドトラックで聞いても、やはりセリフや映画の色々な音と一緒でないと、感銘が少ないです。
アドソは少女を後に残し去って行き、少女はアドソの後ろ姿を見守ります。そして二頭の驢馬に乗って、雪が残る地上を遙かな先を目指して進むアドソとウィリアムの小さな姿が現れ、そこで、アドソのナレーションが入ります。「わたしは師について行った。後悔はしていない。師からは様々なことを学んだ。よきことや真理や智慧などを。師は別れる前に、眼鏡をわたしにくれた。わたしは言った、わたしには必要がありませんと、しかし師は、何時か必要になると答え、そして今わたしは師からもらった眼鏡をかけて、この記録を書いている。その後、師とは二度と会うことはなかった。しかしいつも師の魂のため祈っている。師が自己の知的なプライドを満足させるために犯した数々の罪を、神が赦してくださるようにと。……いま、わたしはたいへんに老いた人間となった。この長い年月のあいだ、わたしの心から決して消えない一つの姿がある。それは一人の少女の顔である。しかし、わたしは知ることはなかったし、知る機会もなかった……彼女の名を」。こうして、映画「薔薇の名前」は終わりになり、クレジットが出てきて、エンドスクロールと共に音楽が流れます。この音楽が非常に美しいのです。
この情景は何ともロマンティックな仕上がりになっていると思う。わたしの知り合いの女性は、この映画を評して「あの汚い映画」とか言っていたようですが、それは14世紀の修道院やその時代の人々の生活を非常に具体的・忠実に再現したためで、貧しい人々は、ぼろをまとっていたとも言えます。忠実に14世紀の西欧……この場合は北イタリアの大修道院を再現すると言うことで、映画は非常に膨大な時代考証や文化考証を行っており、エンドスクロールにも出てきますが、ル・ゴフという歴史学者に考証を依頼しています。そのため、修道院内部の筆耕室とか図書館とか、素晴らしい再現性があり、まさに西欧の中世とはこういう世界だったのだということが分かるようになっていたと思う。しかし、それはある種の感性からは、やはり「汚い」ということになるのでしょう。実際に「汚かった」のですし。(日本は、亜熱帯気候から温帯気候の土地柄で、清潔にしないと社会や共同体が維持できないという特徴があります。江戸時代の江戸や大坂は、当時の世界有数の大都市であって、膨大な人口を持っていたが、非常に「清潔な都市」だった。しかし西欧の都市は、ともかく不潔な場所で、パリもロンドンも、18世紀に至るまで、まともな下水道システムを備えていなかった。19世紀になっても、そういうシステムは完成していなかった。中世のドイツ、イタリア、フランス、イギリスの大都市は、下水道がないので、ごみや汚物を、道に捨てていた。また、フランスの聖ルイ王だったか、または別の王だったか、夜中にパリを見回りに出かけた処、建物の二階か三階の窓から、誰かが、小便の入った壺の中身を外の道路に捨てたので、これが王の頭上に降り注ぎ、王は小便まみれになったという逸話があります。この男は捕らえられるのですが、夜中にも勉強して大学生だと分かり、勉強熱心であるとして、王は男を罰する代わりに、褒美を与えます。これは美徳譚ですが、夜中に窓の下を通る方が悪いのだという含意もあります。西欧は温帯から寒帯の気候なので、ごみや汚物は乾燥して、風と共に飛ぶのですが、大雨が降ると、道はぬかるみ、ごみは腐り、大小便などは泥と一緒になって、道全体が、汚物の通りに変じるという状態だったので、ペストが一旦発生すると、燎原の火のごとしでした)。
というような、汚い、不潔な世界が西欧中世で、無論、富裕な家のなかに入ると、人々は美しい服装をし、手工芸の芸術的な調度などに囲まれていたのですが、貧しい人々の生活は、泥とごみと糞尿と隣り合わせの生活であったというのもあります。17世紀のフランスは、ルイ14世の元で宮廷文化が花開き、貴族や富裕な人々は優雅な日々を送っていましたが、パリから一歩外に出て、田舎の農民の集落に行くと、住んでいるのは人なのか妖怪なのか知れないような悲惨な状態であったというのがあります。サロン文化全盛のフランスにあって、貴族の邸宅は文化や灯火に明るく輝き華やかなことこの上もなかったが、外は真っ暗闇であった……貧困と無知のため。17世紀でも、こういう状態で、「薔薇の名前」の14世紀だと、サロン文化などなく、パリの大学の講義では、学生は藁の上に座って教授の講義を聴いていたと言います。また本は貴重品で、学生は本の1ページとか2ページを筆写で写すことが許され、こうして少しずつ学んでいったということです。トマス・アクィナスの『神学大全』には聖書からの引用が多数出てきますが、当時流布していた『ウルガタ』と較べても、一致しない引用が多く、その理由は、トマスは本を参照して引用していたのではなく、記憶を元に書いていたからだるというのがあります。Summa Theologica は膨大な本ですが、本を何十冊も手元において、それを参照しながら「スンマ」を書いていたのではなく、ほぼすべてトマスの頭のなかに本が収まっていたという状況です。と、このような状況をあらかじめに知っていると、バスカヴィルのウィリアムが秘密図書館内部に入り込み、膨大な本が積まれていることを目にして、歓喜の叫びを挙げて走り出し、そのあたりの本を片端から開いて、アドソに、「素晴らしい。ここは、キリスト教世界で最大の図書館の一つだ!」と言うのは、もの凄く実感として伝わって来る。ここの背景音楽は、Discovery(発見)という名で、何か歓喜が伝わるような音楽になっています。ただ、これも音楽だけ聞くと、効果が少ないです。ウィリアムの言葉などが入り、次々に開いて行く写本が、色鮮やかな装飾画が描かれているという場面を見ながらだと、歓喜が伝わってきます。
こういう印象は、もしかすると人によって違うのかも知れませんが。わたしは西欧の都市や修道院について、ともかく暗く、貧しく、汚く、しかし、手工芸では芸術的な美を持っていたという前提知識があるので、確かにそういう情景がル・ゴフなどによって再現されているのを見て、感銘を受けたのですが、これを単に「汚い」としか感じない人もいるかも知れないでしょう。
映画は、資料によると、三カ所で撮影されたようです。北イタリアの実際の野外に壮大なセットを造り、実際に雪が降るような寒さのなかで撮影したのと、修道院内部は、倉庫として使われていたドイツのエーベルバッハ修道院の内部を改装して、修道院らしい調度を揃えて、ここで撮影しています。このエーベルバッハ修道院というのは、青池保子が「エロイカより愛をこめて」の漫画のなかで、エーベルバッハ少佐と同じ名前の町があり修道院跡があると記していたところですが、青池は、スペインのドン・ペドロ残酷王の生涯を描いた『アル・カサル−王城』などの作品も書いているので、西欧中世などにかなり関心を持っていたので、そういうところまで調べたのでしょう。(青池には、「修道士ファルコ」連作とか、リチャード獅子心王が聖地奪回に遠征していた時代の三人の修道士の話の連作などもあり、非常によく中世の修道院とか、そういったことを調べていると思います。ただ、「アル・カサル」を描き始めたときは、それほど詳しく調べていた訳ではなく、もっと詳しい資料を入手して、「ええ、こんな服装をしていたの!!」というように自分で驚いたと作品の後書きで書いています)。撮影のもう一つの場所はローマ郊外のチネチッタ撮影所で、ここに秘密図書館内部のセットが造られていました。ところで、北イタリアの野外セットでの撮影はたいへんなものだったようで、あまりの寒さに、俳優もスタッフも、厚くしたエスプレッソをがぶ飲みしていたと言い、またショーン・コネリーが、「裸足のサンダルで撮影するとか、何故もっと工夫しないのだ」と不満を述べていたというのがあります。14世紀のフランシシスコ会修道士の服装を忠実に再現すると、真冬の雪が積もるような寒い場所でも、裸足にサンダルをはいていたと言うことで、寒くて仕方ないということでしょう。しかし、もの凄い、実感してことは、撮影隊が暖房などを備えて撮影に行って、寒い服装も撮影のときだけだったにも関わらず、誰も彼も、耐え難い寒さだと感じたようですが、歴史的には、実際に、こういう場所に、そういう服装で人々が生活していたというのが事実です。(ただし、地球の環境は、特に、気候や温度は大きな波があり、中世の14世紀頃は、比較的に暖かかったという資料があります。18世紀頃には、非常に寒くなり、ロンドンのテームズ河が冬に氷結して、人々がスケートをしていたという話がありますが、現在、テームズ河が冬に氷結するというような話はありません。少し暖かくなっている。中世の頃は西欧は、結構暖かかったということです)。
何か、話が延々と続くので、何を書こうとしていたのか定かでなくなって来ている。「人のレーベン」というのは、中世に生きて死んだ人たちは、どういう人生を送ったのかという話です。映画では、ウィリアムと二人で驢馬に乗って、旅するアドソの姿が最後ですが、原作の小説では、最後の章があって、そこでは、後年アドソは、再び、北イタリアの修道院跡を尋ねたりします。彼は、『薔薇の名前』の記録を羊皮紙に記し、最後に、筆耕室はひどく寒くなった。手が寒さで痛む。わたしは記録を残してこの部屋を出よう。誰かがこの記録を読むのかわたしは知らない。わたしは、記録を残し部屋を後にすると、と書かれています。これで小説は終わりで、そのアドソの言葉の次に、Stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus. というラインが置かれています。これは、Stat rosa ではなく、Stat Roma だという説があります。どうもそうらしいのですが、Stat rosa でも間違いではないような感じもします(これは、モーレーのベルナールの詩の一行で、この行の前後に書いてあることからすると、Stat Roma が正しいと思えます。「バビロンの栄華ぞいまいずこ、去年の雪ぞいまいずこ。いにしえのローマはただ名のみ、空しきその名を我らは手にする」……これだと意味が通ります。
アドソは、メルク男爵の末子に生まれ、ベネディクト会の修道士になり、やがて修道会の長老をなり、ドム・アドソという称号で呼ばれるようになり、この記録を残して世を去ります。アドソの生涯とは何であったのか、とも思います。しかし、アドソは貴族の子弟で、富裕階層の一員です。それよりも比較にならない貧しい、名もない人が無数にいたということです。
そして、この「薔薇の名前」はやはり「ロマンス」という形式なのでしょう。ロマンティックであると共に、人間の生の埃の彼方に埋もれて消えて行く定め。エンドスクロールの背景の音楽は、「人のレーベン・運命」を演奏しているように思える。
追加)先に、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「Herz und Mund und Tat und Leben」を日本語に訳すとこうなると書きましたが、間違っていました(順序を間違ったのと、タイプミス)。これは「心と口と行いと命は」です(ヘルツ・ウント・ムント・ウント・タート・ウント・レーベン)。英語だと、「Heart and Mouth and Deed and Life」に大体該当します。
ところで、『薔薇の名前』に関連した話はまだあるので、それは別の機会に書くことにします。
栄華「薔薇の名前」の OST (オリジナル・サウンド・トラック)のMP3ファイル・パックを見つけたので、ここにDLのURLを記します。探すと、色々なものがあります。Youtube には動画が一杯ありますが、音楽の類もアップロード・サイトの多数アップロードされています。以下のファイルは37MBほどの大きさなので、フリーのダウンロードは5から10分ぐらいで可能です。なお、パスワードがかかっていますが、ファイルの説明が、Notice: password is unknown.(パスワードは不明である)というもので、ここから色々と推測するとパスワードが分かります。Rose か Rosa か、何かそういうものかとも思いましたが、password is unknown というのは、「不明である」という意味ではなく、「パスワードは、unknown である」という意味です。もう一つ、ベンジャミン・ブリトゥンの「キャロルの祭典」のなかの4Bの曲、つまり「子守歌・Balulalow」もありました。これはボーイソプラノが歌っています。かなり美しいです。こちらはパスワードはかかっていません(フリーダウンロードは、三つの文字を入力して、一分ほど待つと、DLリンクが現れます)。
The Name of the Rose - Original Sound Tracks MP3 files pack:
> ttp://www.megaupload.com/?d=HVDTZUAV
Balulalow - B4, Ceremony of Carol
> ttp://www.megaupload.com/?d=NBS9161B
/* Miranda Noice Welrech */ |
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| 2010/01/20 (Wed)/16:28:07
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[334] |
New Year 2010 |
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| [Reply] |
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par Miranda et Marie RA. |
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たいへん遅くなりましたが、新年の挨拶を申し上げます。
一昨年に続き、昨年も様々なことがあったような記憶があります。そしてこの2010年という新しい年にも。色々あったことは、「記憶」にあるので、それらの色々なことは現在のいまの流れるときに、反映されているとはいえ、昨日はいずこにあるのか。どこにもないということになります。
『ジェニーの肖像』をアマゾンで調べると、関連本として『ゲイルズバーグの春を愛する』(というのが正確なタイトルなのか少し不安ですが)というような本が出てきます。この本のタイトルは何か非常に懐かしいものがります。しかし、幾ら考えても、この本(短編集のはず)の内容が記憶に甦って来ない。本は購入したが読まなかったのか、という可能性もあるのですが、読んでいるはずだという確信もある。例えば、レイ・ブラッドベリの『メランコリーの妙薬』は、すべて通して読んではいないが、大体の話は読んでいるが、他方、シオドア・スタージョンの(だったと思う)『一角獣・多角獣』は本を購入したが、内容は読んでいないと、はっきり記憶しているというような確信と同じ水準のことですが。まんがなどになると、昔、一回だけ読んだ場合など、内容も筋もエンディングもすべて忘れていると言うことがよくあるように思う。
というような回顧譚か、記憶の消失、ぼけてきた兆候・現実を「憂うる」というような話を書こうとしていたのではない。
この新しい年(と言ってすでに半月以上が経過していますが)において、感じたことは、人の存在にとって重要なことは、人間との関係だということです。いかなる財産や金銭や物品よりも人と人の関わりは重要だと思う。とはいえ、利益関係がなくなれば、人間関係もなくなるという例も非常に多い。というか、人は様々な意味で、生きるための広義の「利害」で人間関係を決めているし、選んでいると思える。
そのような事情もあってか、人生の四苦である生老病死にあって、「生」もまた苦しみであるということになります。「生」とは「生まれてくる苦しみ」だとも解説がありますが、わたしは「生きていることの苦しみ」だと思います。ヨハン・セバスティアン・バッハに、"Herz und Mund und Tat und Leben" というコラールがあります。「主よ、人の望みの喜びよ」という曲・歌は、このコラールのなかに入っています。
このコラールのタイトルの最後の「 Leben 」はどういう意味なのか、という解釈というか、翻訳の問題があります。Leben(レーベン)というのは、「生きる」という動詞の名詞形で、「生きること、人生、命」など色々な意味があります。この場合はどういう意味かと言うことです。このコラールは、受胎告知に関係し、エリサベツがマリアを訪ねるというような『ルカ福音書』のエピソードを前提にして造られているので、そこから「 Leben 」の意味も大体決まって来る。この場合、「どのように生きているか」という意味で、ある人はこれを「生きざま」と訳しました。しかし、そういう言葉は伝統的にはないはずで、「死にざま」から造った言葉で、あまりいい意味ではない。するとどう訳せばよいのか。わたしは「いのち」と言う風に訳すというか、このドイツ語のタイトルを日本語で書く場合は、「口よ心と行いと命は」という風に書く。
「生きているありさま」というか「いかに生きているか、いかに生きてきたか」という意味がこの「レーベン」に込められているという考えです。
「生」は苦しみであるというのは釈迦牟尼仏陀の教えで、この苦しみから逃れるにはいかにすればよいか。「盛者必滅、会者定離」の道理を覚知することであると釈迦は教えたとされます。生は苦しみである。会いたくない人とも会わねばならず、いつまで会っていたいと思う人も、何時か、色々な意味で去って行く、分かれて行くのが人の人生のありようである。
「神の国は、あなた方のあいだにある」イエススはこのように教えたとされます。わたし自身はこれがイエススの「真の教え」だと考えていますが。「あなた方のあいだ」とは「人と人の関係・交わり」んあかに「神の国・天の国」はあるということです。しかし、人と人のあいだには、地獄や煉獄もある訳で、ペシミストだった釈迦牟尼は、人と人のあいだに生きることの煩わしさや、悲しみや、苦をむしろ重視した。イエススの教えも、「神の国」は「人と人のあいだにある」というよりも、「人と人の関係にあって、実現されねばならない」という意味だったと思う。
生きていることで、「この世」にあって、人の関心は、人の関係に向いている。ゾルゲは関心であり、憂慮でもあり、人とは現存在であれば、実は、それは「魂」であり、ソクラテスは「魂を気遣え」つまり「魂に関心を抱き、魂のありように配慮せよ」と教えたが、人の関係の世界のなかで、「魂の善」とは何かを尋ねよと教えたのだと思う。「善」とは理想であって、善はこの世には実はないというべきである。
「善はない」あるいは「この世に善を求めるのが間違いであり、苦の原因である」と釈迦牟尼仏陀は看破された。釈迦は、この世の生には、ただ悲しみと絶望しかないと覚知すれば、心はむしろ平安になり安らぎが訪れる。会者定離である以上、人の愛憎は避けがたく、会うことも苦しみであれば分かれることも苦しみで、その逆も苦しみである。「すべて空しい」とは釈迦は言っていないと思う。それはコーヘレトが言ったことで、釈迦は、人は生に苦しみ悩んだあげく、老いて病となり、死んで行くのが人間である。これは苦であるが、苦を苦として認めれば、心の平安が訪れる。
かつて、釈迦牟尼は、死後の永遠の生を知っていたとわたしは考えた。この考えは間違っていないと思う。釈迦自身はそういう考えはなかったのかも知れないが、釈迦の悟ったこととは、比喩としての「永遠のいのち」ではなく、「永遠のいのち」の真実だったとわたしは思うのです。グノーシスの至高者である「先在の父」は空虚である、実は存在していない。しかし、これが世界の真実でしょう。
「祈り」は例えば、キリスト教の神のような妄想の産物に対して行うものではない。そのような神は妄想だと分かっていて、祈っているのではないので、余計に奇妙なことになっている。遠藤周作は、「同伴するイエス」という考えを述べていたが、神は同伴しない。
人と人の関係は重要である。それは人の魂のあいだに神が臨在するからである。人のいのちの日は空しい。空しいが故に、人は、ある稀なときにあって、祈りが実在する主を確信させることを知る。人は何に対し祈るのか。
リゼアルは知ったのではないのか。貴方は貴方のために歌えばよい。貴方は貴方のために祈ればよい。貴方自身を救済できないで、いかに、世の救済があるのか。アイオーンの先在の父が空虚なのは、実はこのためである。実在する至高者は実在してはならない。すべてのことにはときがある。先在の父は、実在するという姿で実在するのではなく、臨在されるのである。わたしは孤独にあって生き、孤独にあって死んで行く。しかし、孤独ではない。主は、祈りのなかで臨在される。
主は、主を望む人において現れる。神の国は、神の国を必要とする人の前に現れる。主は無である。神の国は無である。そのようなものは存在しない。存在しないものが現れるので、それを奇蹟と呼ぶのである。
色々なことを新年の言葉として記しました。何を無意味な、あるいは訳の分からないことを書いているのか、そう思うのは自由です。人と人との関わりは錯覚であり、妄想であり、無である。しかし、だからこそ、人と人の関わりは貴重であり、それは奇蹟である。
/* Miranda et Marie R.A. */ |
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| 2010/01/17 (Sun)/16:42:00
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[332] |
どこから来て、どこに行くのか |
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par Marie RoseAnne Shawolfenn et Miranda |
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ロバート・ネイサンに『ジェニーの肖像』という話がある。長編というより中編小説であるが、いまはストーリーが何であったのかも忘却している。アマゾンで調べると、井上一夫の訳で出ているものが恐らくわたしが読んだ本だと思う。1975年出版になっているので、時期的にこの頃だと思う。これはファンタジーの分類に入るのか、ある意味で、時間を超えた恋愛の物語である。しかし、当時の感性はいまとは違っていたのか、あるいは作品をいま一度読み返してみると、やはり昔と同じ印象を持つのか、分からないが、恋愛小説ファンタジーという記憶がない。
確かに、これは時間を超えた一組の男女の恋愛の物語で、最終的には(ここで話の最後を書いてよいのか迷いがあるが)悲恋に終わる物語である。現実にありえない、時間を超えたファンタジーの世界での悲恋の話になっている。「どこから来て、どこに行くのか」というのは、確か小松左京もそのようなことを述べていた(『果てしなき流れの果て』では、このような人間の哲学的な根源的疑問が、SFという或る意味で安易な装置のなかで、パロディのように馬鹿馬鹿しい話となっている。昔、読んだときにはそうは感じなかったが、小松左京の作品は全体について、どうにも胡散臭いというか、でたらめな印象があったが、今になって思えば、小松は自己の才に溺れていたのではないかとも思う。そういう話はともかくとして)。
小松左京もそういうことを述べていたが、すでに書いたように、これは人間の根源的な哲学的アポリアである。従って、「どこから来て、どこへ行くのか」というのは、哲学的な問いとしては平凡なものでもある。ロバート・ネイサンの話には、短い「詩」のような形で、「どこから来たのか誰も知らない。どこへ行くのか、みな行くところ」という言葉が挿入されていた。これは誰の言葉なのか、ジェニーが歌っていた言葉なのか何であったのか今記憶に甦らない。しかし、これは独立した詩または歌の形で作品中に出てくる。この言葉は印象的であり、ポエティックというか詩情溢れる言葉だったと思う。
ロバート・ネイサンの話では、「我々はどこから来て、どこに行くのか」という複数一人称の形であったし、一般に哲学的アポリアとしては、これは人類の存在の根拠問題である。従って、既存の宗教や信仰における世界観・人生観とも交差している。しかし、ここでわたしが尋ねている、あるいは記しているのは「わたしはどこから来て、どこへ行くのか」という単数一人称の問いである。わたしは世の救済者でもなければ、迷える人々を信仰に導く牧者でもなく、悟りの道を慈悲の心で人々に示すボーディサットヴァ(菩薩または修行者)の類でもない。そういう崇高なものではない。
ピンク・フロイドの The Dark Side of the Moon のなかに、And after all, we are ordinary men. という歌のラインがある。「結局、ぼくらはただの人だった」というような意味であるが、この歌のラインの背後にある思考には、「我々」という幻想の共同体を前提とした「人類一般・人間一般」の無自覚なドクサがあるとも思える。これは誰が作詞したのか、誰の思想なのか。ロジャー・ウォーターズなのか、それとも別のメンバーなのか、今分からない。しかし、ロジャーであろうとなかろうと、ピンク・フロイドはビッグ・メジャーであった。major の上に更に big とはおかしいが、「ピンク・フロイドは所詮、大衆受けのする平凡なミュージシャンだった」という批評も後にあったが、しかし初期の彼らの音楽は、個人的な印象では突出していたと思う。
「大衆受けする平凡な音楽」というのは、結局、ピンク・フロイドが開いた音楽の可能性を自明のものとして、それを模倣する者たちが大量に出現した後のエピゴーネン的音楽批評家の妄言にしか聞こえない。つまり、そう云っている批評家の底の浅さを示しているに過ぎない。ピンク・フロイドについて特別な位置があると思うのは、彼らは「魂で聞く音楽」を作り出したということではないかと思う。「魂で聞く」というと「ソウル・ミュージック」や「ゴスペル」がそうではないのかという意見があるかも知れないが、その場合の「魂」は、それこそ「大衆向けの魂」である。シド・バレットは頭がおかしかったのだと思うが、ロジャー・ウォーターズは、半分頭がおかしくて、後の半分は正気だったと思う。
カール・グスタフ・ユングはジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』や彼の一連の作品を評して、ジョイスは無意識の底まで潜る能力があり、そして正気のまま再び水面上に上がって来て、水の底で何を経験したかを言葉にする能力があったのだと述べていたように思う。ジョイスには娘があり、彼女はジョイス自身とよく似た、「意味不明な言葉」を書き連ねていた。ジョイスは娘の才能を評価していたが、ユングは、ジョイスの娘は精神病なのであり、無意識に潜るのはよいとして、潜ったまま水面上に戻ってこれない。これがジョイスの文学と、彼の娘の書く文章の根本的な違いであると述べていた(どこでそういうことを云っていたのか、五巻本の『ユング選集』のなかのある巻にある論文『ユリシーズ』で調べたが、そういう言葉はなかった。どこで読んだのか疑問であるが)。
つまり、ロジャーは無意識の水に潜って、再び水面上に上がって来て、自分が経験したことを一般の人に理解できる言葉で表現できた。しかしシド・バレットは潜ったままで、浮いてこなかったので、何を主張してるのか分からないという意味である。音楽は意識において、理性が理解するものではないので、シド・バレットの華々しく、常軌を逸した異様に美しい音楽は、高く評価されたが、しかし、バレットはピンク・フロイドから去って行った。残ったロジャー・ウォーターズがピンク・フロイドの音楽の哲学的な象徴構造を具現化したのだと思う。いや、ロジャーの哲学的なアポリアに対する感性が、ピンク・フロイドの音楽と歌詞に形而上学的な象徴意味を与えたのだと思う。
『ピンク・フロイドの道』、『神秘』、『ウマグマ』、『おせっかい』、『原子心母』、『狂気』、『炎』、『アニマルズ』、『ザ・ウォール』と続いて行くアルバムのなかで(順序は違っているかも知れない)、恐らく、『おせっかい』に収められている「エコーズ」がその頂点なのだろうと思う。『おせっかい』に含まれる「吹けよ風、呼べよ嵐(One of These Days)」という何を言っているのか意味不明で奇怪な曲が頂点だったのだと思う(この曲のなかで途中に入っている言葉は、どうやっても聞き取れないが、「おまえらをばらして、ばらばらな紙くずにしてやる」というような意味であるそうである)。つまり、話が飛躍しているようであるが、「どこから来て、どこに行くのか」ロジャー・ウォーターズは当然に答えを知らなかったし、「知らない」と叫んでいた。これが「魂で聞く音楽」である。
「エコーズ」は惑星が誕生し、そこに生命が芽生え、やがて意識ある存在が現れ、それらのあいだで「魂の交流・コミュニケーション」が成立するという曲であると云う(どこからそういう解釈が出てくるのかは、これはピンク・フロイドというかロジャー自身が昔解説していたという話である。「あれは惑星で生命が誕生し、進化する過程をうたった曲だった」)。つまり、孤独な魂が、他の魂とのあいだで神秘的な交流を行い、魔術的な観念において、「理解が成立する」。惑星における生命の誕生から歌っている「エコーズ」は、「どこから来て、どこに行くのか」を実は尋ねている音楽だと言える。「分からない。お前らは誰だ?」という音楽がつまり、「One of These Days」なのだともいま主観的に考える。『狂気』でロジャーは、「わたしはどこから来たのか」を「我々はどこから来たのか」に変えたのだと思う。それは謎のような、いや謎そのもののロジャーの音楽を自己解説し、世俗的な理解と妥協を構成する作業だった。この結果、『ザ・ウォール』に見られるような極めて愚かしいと言える、単純なシミルの音楽に彼らの音楽は低落した。
いや、ピンク・フロイドの音楽の批評や解説をしているのではない。「どこから来たのか、どこに行くのか」の主語は、この場合、一人称単数なのだとわたしは述べている。「どこから来たのか」分からない。「どこに行くのか」分からない。「人々」というある意味で「超越論的な圏域」のなかで生まれ来て、死において再びこの「圏域」の潜在世界へと帰って行く。誕生は、デュナミス域からエネルゲイア域への移行で、死はその逆の過程である。宗教は、このような「超越論的圏域」の存在を人に確信させる。生と死の根拠が不明であり、また「どこから来たのか」「どこへ行くのか」知りようもない人間の実存の状況において、宗教は伝統的共同体社会の編成原理と共編されて、人に「自己は誰か」を教え、生と死の意味とその原因と結果を教える。しかし、これは哲学的実存的には虚偽であり妄想・幻想である。とはいえ、人は個人としてあまりに弱く、あまりにも無力である。「根拠」を与えてくれる共同体圏域の存在仮定は、これを捨てると、自己の存在が「無」へと落下する。キリスト教の妄想がかくも膨大な人口に支持され信仰されてあるのは、このような実存の悲惨の事態の顕現に他ならない。
「どこから来たのか」そうである。わたしはどこから来たのか。アニメの『灰羽連盟』においては、まさに個々人の不可解な「来歴」が根源的な謎として、美しくかつ見事な具体性を持って象徴表現されていた。「どこに行くのか」これもまた、『灰羽連盟』において、美しく象徴表現されていた。それ故、わたしはこの作品に計り知れない美しさと実存の感銘を受けた。だが既に述べたように、話は連続して重なって行くにつれ、共同体妄想圏域の構成と発見へと繋がって行く。レキが「礫」であるのか「轢」であるのか、この漢字の違いに何の意味があるのか。礫であろうと轢であろうと、轢死が自殺の結果なら、それは厳粛な実存の選択であり運命である。自殺した者が死後に集まる世界が灰羽の世界だとは、あまりにも愚かしい解釈であり、あまりにも象徴の無限の意味の低落である。そのように解釈し、了解するとき、『灰羽連盟』の話は心を感動させる。そうではない。自殺しようとしまいと、人の死は「永遠の孤独」である。通俗的共同体の「超越論的圏域」への後退を、このような卓越した象徴を構築した作品が認めるとはわたしには受け入れがたい。
しかし、そのような解釈や解説や、作者自身の自己欺瞞による意味の低落が「人々=大衆」の愚劣さには受け入れられるのである。ユダヤ人を虐殺すること、いやそれ以上に悲惨で戦慄すべき世界をこの世に実現することがハイデッガーの思索の結論だった。ヒトラーはハイデッガーのこのような恐るべき思想を受け入れることはできなかった。かくもハイデッガーは戦慄すべき人間と宇宙の存在の姿を理解していた。わたしはハイデッガーを称える者ではない。信奉者でもない。しかし彼がリルケやヘルダリーンの詩に「救済の予兆」を読み取ろうとしたことは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『マタイ受難曲』が、キリスト教の擬似共同体妄想の超越論的偽装を超えて、人の孤独の実存を感動させるのと同じ意味を持つと思える。ハイデッガーはリルケよりも寧ろヘルダリーンを高く評価したようであるが、これに対し、「リルケの詩の方が遙かにポエティックで興味深い・面白い」という言葉を誰かが書いていた(ハイデッガーの『乏しき時代の詩人』を図書館から借りて読んでいた処、誰が書いたのか、先にこの本を借りて読んだ人が本に書き込みを行っていた)。
その当時、わたしもまたリルケの詩の方が確かに詩的感興があり、意味が豊かだと思った。ヘルダリーンは美しい言葉が並ぶが、いまでもその詩の思考はわたしには理解できない。考えてみれば、ヘルダリーンは精神を病んで狂気に陥ったままで生涯を閉じた。「わたしはどこから来て、どこに行くのか」この問いは、そもそも「存在は何故存在するのか」に通じる。全能の神が創造したのであるとキリスト教は答えるが、その教えのどこに「答え」があるのか。トマス・アクィナスのような超越的な思考力を持っていた人でさえ、その答えは分からなかった。あるいはトマスはそれが分かった為、死の前、狂気に陥り、またそれが元で死去したのか。「存在」を尋ねて、西洋の哲学と形而上学の歴史からはかつて一度も省みられたことのない古代ギリシアの哲学思想を解読したのは、ハイデッガーの教師とも言えるフリードリヒ・ニーチェである。
ニーチェは西洋古典学者として、古代ギリシア語の本来の意味や用法を研究していた。彼は、ソクラテス前哲学者の断片的な言葉の意味を分析して行く過程で、彼らが使う「エイナイ、Einai」つまり「存在」には、西洋の形而上学には含まれていない「ある意味」があることに気づいた。ニーチェは何故『ツァラトゥストラ』を書き、『善悪の彼岸』を書いたのだろうか。彼は狂気に陥った。『ツァラトゥストラ』を書いたが故に狂気へと進まざるを得なかったのか、狂気に身を浸し、真理を知ったが故に、『ツァラトゥストラ』が書けたのか。誰が答えを知っているのか。ある精神分裂病の人は「死よりも恐るべき暗黒の恐怖」を知っており、この恐怖から逃れるため、私は自殺すると記した。しかし、死によってこの「暗黒の恐怖」から遁れ得るのだろうか。わたしには分からない。死はすべてを無とする。しかしその「すべて」とは、我々が生まれて以来の社会的習慣から了解している「この世に関する超越論的ドクサ」である。
キリスト教の妄想信仰を例として、そのような「共同体的超越論的圏域」のドクサは「妄想」だとわたしは述べた。わたしはそのように考えた。死は無である。わたしの導き手であった師ベルグシュヴェンは、死は何の恐怖もないと語り、その言葉で自己を欺瞞して実際に死んで行った。ベルグシュヴェン先生、貴方は死は無だとわたしに語りながら、かつて貴方が対話し、にも関わらず自らの手でみずからの命を絶った人々と、死後に出会い、いま一度言葉を交わし、謝りたいと述べていたのは何故か。わたしは貴方が去って行ったトランスツェンデンタールな圏域には死後訪れない。我が生と死を、聖なる光なるものとして、あるいは最低最悪の暗黒として受け入れよう。しかし、わたしは永遠に孤独である。人は死後、彼自身がアプラクサスとなり、初めとなり終わりとなる。ユングはそのように記した。
超越的な永遠世界の子供の夢よ。わたしはどこから来たのか? 永遠の夢の彼方から。わたしはどこに行くのか? 永遠の夢の彼方に。ああ、アートマンがブラフマンであるなどと、それが真実であるなら、わたしはどこにも逃れることができない。死を逃れることもまたできない。誕生を逃れることもできない。誕生し生き延び、意識と自我を持ち、生と死を尋ねるわたしは、わたし以前の無には事態を戻すことはできない。死は永遠の暗黒であり、わたしにはただ限りない恐怖しかない。死よりも恐ろしいこととは、「永遠の暗黒」である。これを直視するとき、人は狂気に陥ってみずからを救うか、または共同体の共編妄想の超越論的圏域のイメージで真理を瞞着する以外に救いがない。
> Θεε μου θεε μου, ινατι με εγκατελιπεs;
わが神、わが神、なにゆえわたしを見捨てられるのか?
わたしは爾を見捨てはしない。永遠の暗黒はいのちにとって救いである。いのちは永遠の暗黒より来たり、永遠の暗黒に帰って行く。どこから来たのか、どこへ行くのか。永遠の暗黒より、永遠の暗黒に。永遠の暗黒とは、何でもない。何でもない者こそは、先在の父・プロパトールである。爾はそのことを知らなかったのか。先在の父は存在しない。無である。光は闇のなかで輝いている。闇は光を理解しなかった。そのように永遠の永遠が過ぎ去ったとき、闇は光を生み出す。野に咲くすみれの花は、誰も知ることもなく花開き消え、永遠のときが過ぎ去って行く。わが子よ、レーヴはいつの日にか、貴方を生み出し救う。
* Marie RoseAnne Shawolfenn, MG * |
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| 2009/12/30 (Wed)/06:46:09
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[331] |
+ O my deare hert +おお私のいとしき心よ……+ |
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par Joann et Marie et Miranda |
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すでに夜となり25日は過ぎ去ろうとしていますが、この日は、冬至聖日です。我々はクリスマスとは呼ばないのです。元々冬至聖日は、古代地中海世界にあっては、ミトラスの誕生日であり、太陽の再生と復活を祝う聖日です。
ナザレのイエススは貧しく生まれ、貧しきその人生を生きてそして苦悶のなかで世を去って行った。何のためであったのか。それは偽善なるキリスト教が語るような、「人類の救済」のためではなかった。イエススは人類というような抽象的なものを語ったことはなかった。今日を生き、明日に希望を残すため、イエススは教えを語られた。
わたしはかつて心貧しき者であった。そして今もなお心貧しき、満たされることのない孤独の住民である。ルクス・チェーリー(天の光)は幻想であり妄想である。爾らが隣人や友人を愛そうといかでか優れたところのあるや。敵を愛せとは私は教えていない。敵であるとか味方であるとか、そのような選良的思考を通じて、人の集まりに差別の構造を造ることを私は避けるべきと述べた。
貴方が「敵」と思う人を、まず敵視することをやめるべきである。私たちは、天の父と母において、みな共に兄弟であり姉妹ではないのか。わたしは救いを誰かに限定しはしない。わたしは神に千回祈った、かの人は神に祈ったことがない、それ故、わたしは天の国に入り、かの人は地にあって塵に崩れると、そのような教えを語った覚えはない。
救われる者は、すでに救われている。すでに救われている者を、わたしイエススがいかにして更に救うことができるのか。貴方たちは、神の子である。神の子であるが故に、運命の悲惨さを受け入れねばならない。神は、貴方たちにとって悪しき者ではない。神は、貴方たち自身の魂のうちにあるからである。天の国は、貴方たちの魂と霊の交わりにある。何ゆえに、貴方たちは争い続け、人を憎み、さげすみ、自らを貶めるのか。
主は語られる。来たれ、救いを求めよ。救いは求める者の心のなかにある。敵を愛せよとはわたしは云わない。何ものも貴方たちの敵ではない。貴方たちは闇にあって呻吟している。そのことを主である神は知っておられる。何故であるのか。何時か、私たちは知ることであろう。生がなぜ生まれ、死がなぜ生まれたか。誰を怨み、誰を憎む必要があるのか。主はすべての魂に恵みを与えられる。
私たちはすべて死に絶え、永遠が永遠にわたって過ぎ去った後、このアイオーンはかのアイオーンとなり、アイオーンが限りなく経過した後、夢は一人の子供を産み出すだろう。聖なる乙女よ、チェチーリアよ、あなたの救いは限りない永遠の彼方にあって輝いているでしょう。父なる翼と母なる永遠のチェチーリア、永遠の少女と永遠の少年なるシオンとソピアーにあって恵みあれかし。
四位の主の御名において。永遠の永遠の彼方の救済の空しさと限りなき喜びにおいて。主よ、貴方に、我が魂を献げたてまつらん。宇宙とは星々の輝く暗黒であると何故あなたは気づかないのか。私たちは去って行く。星の翼の象徴において、聖聖聖なる永遠の翼と倶に。かくて、私たちは主なるイエススを私たちの魂に抱いて歌うであろう。あの救いと啓示の真実の歌を。サンクタ・プロマーテール・アンゲロールム、カイレ・ドミヌス・テークム。
「+おお私のいとしき心よ……+」
EMI ANGEL EAC-80383 レコード
ベンジャミン・ブリトゥン「キャロルの祭典」より
第4歌B Balulalow 宮内 勝 訳詩
原文 中世英語 〈訳詩通り〉
> O my deare hert, young Jesu sweit,
> Prepare thy creddil in my spreit,
> And I sall rock thee to my hert,
> And never mair from thee depart.
> But I sall praise thee evermoir
> With sanges sweit unto thy gloir;
> The knees of my hert sall I bow,
> And sing that richt Balulalow!
+おお私のいとしき心よ+ 幼き愛らしきイエスよ
あなたのゆりかごを 私の心の中に用意しよう
そしてあなたを 鼓動に合わせて揺らしてあげよう
そして私は 決してあなたと離れまい
永遠にあなたを称えるのです
美しき歌をもってあなたの栄光を
私の心のひざを折ってひざまずき
あの良き子守歌を歌うのです……
すべての魂に恵みのあらんことを。主なる翼と聖チェチーリア、聖なる乙女と永遠のプエルの四位にあって、恵みがアイオーンのアイオーンにおいてありますよう。
* Joann Ch. Stersim et Marie RoseAnn Shawolfenn et Miranda Noice Welrech * |
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| 2009/12/25 (Fri)/23:43:20
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[330] |
Requiem et In Paradisum - Gabriel Fauré |
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par Miranda Noice Welrech |
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ガブリエル・フォーレの『レクイエム』は、色々な人が指揮・演奏して歌われているが、基本的に、私の好みとしては、ソプラノは女声ではなくボーイソプラノが美しく望ましく思える。特に、「ピエ・イエズ」のソプラノ・ソロは、ボーイソプラノが絶妙な響きを持つが、しかし、これも少年の歌唱力と指揮者の描く音楽のイメージによって異なる。また演奏の方法によって違うのか、同じ「ピエ・イエズ」を歌っていても、伴奏にかなりな違いがある。
「ピエ・イエズ」の歌唱は途中で休止があり、このときに、ハープだと思うが、弦楽器のゆっくりとした、しかし力強い旋律の進行がある。この演奏に近いファイルが Youtube にあるが、ボーイソプラノではなく女声ソプラノである。しかし、このハープとそれに共鳴する複数の弦楽器の素朴で古雅で、しかし虹の光のユニゾン旋律は喩えようもなく美しい。遙かな昔に、LPレコードで、このハープの弦楽旋律部分を聞いたとき、頭のなかに、虹色の光が見えたことを思い出す。共感覚現象であるが、これは記憶にある限りでは、ほとんど経験がなく、この旋律の場合だけである。
次の動画ファイルは、女声ソプラノのレンダリングである。
Rosa Elvira Sierra -Pie Jesu- Requiem- Faure
> ttp://www.youtube.com/watch?v=ZThARSv69Rg
この動画レンダリングの歌で何と歌っているのかを記すと、以下のようになる。ハープと弦楽器のユニゾン旋律と云っているのは、「♪♪♪♪ ♪♪♪♪」の部分で、「ピエ・イエズ」の歌のあいだに二回あるが、最初のものが美しいと思う。ローザ・エルヴィラ・シェラの歌声だと、かなり透明感のあるソプラノであるが、後半になってくると、音の高さはともかく、声量というのか、声の高まりが強すぎて、「敬虔さ」が壊れているように思える。
ここは、ボーイソプラノのあまり声量がない声が敬虔さの表現として適していると私は個人的に感じている。ただ、ボーイソプラノだと、歌唱力にかなり個人差があり、また指揮者の好みからか、あまり綺麗な歌になっていないレンダリングもある。ただ、明確に云えることは、この歌は、女声ソプラノが歌っても、敬虔で古雅な美しさは出ないと云うことがある。あくまで経験からの話で、実際は違うのかも知れないが、女声ソプラノでは、この歌は美しさが表現されないと感じる(以下の「( ? )」の部分は、何と云っているのか聞き取れない部分)。
♪
ピーエ・イエーズ・ドーミネ、ドーナ・エーイス・レークイエム、ドーナ・エーイス・レークイエム
♪♪♪♪ ♪♪♪♪
ピーエ・イエーズ・ドーミネ、ドーナ・エーイス・レークイエム、ドーナ・エーイス・レークイエム
♪♪♪♪ ♪♪♪♪
ドーナ・エーイス・ドーミネ、ドーナ・エーイス・レークイエム、ゼーンピテルナム・レークイエム、ゼーンピテルナム・レークイエム、ゼーンピテルナム・レークイエム
ピーエ・イエー( ? )、ピーエ・イエーズ・ドーミネ、ドーナ・エーイス、ドーナ・エーイス、ゼーンピテルナム・レークイエム、ゼーンピテルナム・レークイエム
この「ピエ・イエズ」は、Sanctus という歌と対になっているというか、フォーレの『レクイエム』ではセットで出てくる。Sanctus の方が先に出てきたと思うが、Sanctus は、万能の主=サバオトを称える歌で、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」というのは、イスラエリの神への讃美である。一方、「ピエ・イエズ」は、神の榮光を称えていると云うより、「優しきイエスス」への「受け入れの祈り」とも言え、敬虔さが必要になるのだと思う。「サンクトゥス」は神の榮光を高らかに歌うので、非常に、高揚した美しい曲である。
Sanctus サンクトゥス ラテン語歌詞
Sanctus, Sanctus, Sanctus
Dominus, Deus Sabaoth
Pleni sunt cali et terra gloria tua
Hosanna, in excelsis
歌詞大意
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
万軍の主なる神
汝の榮光は天と地に充ち満ちる
いと高き処に、ホサンナ
Youtube file:
Faure Requiem Sanctus
> ttp://www.youtube.com/watch?v=qFAx5Squ5DE
フォーレの『レクイエム』は、この後、非常に重苦しいが、人間の実存の過重とそこからの解放を謳っているような Libera Me に続いて行き、暗く思い苦しみと、そこから救い出される魂の歌をうたった後、最後の何とも美しいとしか云いようのない、In Paradisum に続いて行く。
In Paradisum 天国にて ラテン語歌詞
In paradisum deducant te angeli
In tuo adventu, suscipiant te martyres
Et perducant te in civitatem sanctam Jerusalem
Chorus angelorum te suscipiat
Et cum Lazaro quondam paupere, aeternam habeas requiem
歌詞大意
天使たちが貴方を天国へと導き
御国にあって殉教者たちが貴方を迎え入れ
聖なる都イェルサレムへと受け入れたまいますよう
天使たちの合唱が貴方を迎え入れ
貧しきラザロと共に、貴方が永遠の安らぎに与れますよう
Youtube file:
Faure: Requiem (In Paradisum)
> ttp://www.youtube.com/watch?v=82L8AaqA-Dc
かつて、私が若かった頃、私の死の後に、このフォーレの『レクイエム』を葬送に流して欲しいと思ったことがあった。また、In Paradisum の曲を聴きながら、意識が暗黒へと沈んで行き、死に向かい、しかし喩えようもなく美しいこの旋律が、死の暗黒の彼方に、光の天国を恵んでくれるのではとも考えた。無論、私は、天使たちの合唱(コールス・アンゲロールム)に迎えられて天国に入って行くなどと云う幻想を抱いたことはないが。しかし、この曲と歌を死の間際に聴いていたいと思ったのは事実である。
上の Youtube の動画は、どういう意図なのか、人工衛星から写した地球の表面とか、星々の空間とか、遙かな銀河の天体写真とかがレンダンリングの背景に出てくるが、これはどういう意図があってのことかと思う。むしろ、この種類の画像・写真像は、「サンクトゥス」の歌の背景に相応しいのではないかとも思うが、「 Sanctus 」では、こういう画像はあまり効果がないとも思える。ゆっくりと美しき戦慄が流れて行く「イン・パラディスム」の背景として、適しているのかも知れない。
ガブリエル・フォーレの『レクイエム』は心から告白するが、美しかった。「イン・パラディスム」は喩えようもなく美しかった。遙かな過去にあって。いま、しかしわたしは、この音楽の美しさは同様に認めるが、これらの音楽が、人間の「暗黒の実存」を超えることができるかと云えば、それは幻想であり妄想だと思う。
> コールス・アンゲーロールム・テー・ススチピアート
> エト・クム・ラザーロ・クオンダム・パ−ウペーレ、
> エーテルナム・ハーベアス・レークイエム
> 天使たちの合唱が貴方を迎え入れ
> かつて貧しかったラザロと共に、
> 貴方が永遠の安らぎに与れますよう
そういうことは「ない」のである。しかし、イマージュは美しく、人は自己の死のイマージュに美を求めても、それは人の定めの慰めだとも云える。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』が、おそらく宗教の類や有無を超えて、美しく実存の慰めとしてあるように。
主よ、我らに救いと恵みを。貴方の妙なる優しさに私たちの魂は憩い、永遠にあらざる私たちの運命でさえ、そのとき、ひとときの虹の光として暗黒の宇宙に輝くでしょう。また、聖なる乙女にして母なるマリア・チェチーリアよ、私たちに勇気と恵みと幸いを。永遠の永遠の永遠において。ハギアー・プロマーテール・アイテルナ・サンクタ・アンゲロールム。
* Miranda Noice Welrech * |
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| 2009/12/24 (Thu)/06:55:38
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[329] |
Amazing Grace あるいは救いの意味 (再) |
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| [Reply] |
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par Miranda Noice Welrech |
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Youtube で動画と音楽を見ている(聞いている)と、どういう訳か、Amazing Grace のファイルに辿り着いた。関連ファイルを見ていると、何時の間にかそうなってくる。
(ところで、Youtube にアクセスすると、ブラウザのアップヴァージョンを求めて来る。私は目下、IE6 を使っているが、IE7 にアップグレードしなかったのは、確か何か問題があったのだと記憶する。放置すると、勝手に IE7 に自動的にアップグレードするので、それを阻止するスクリプト・ファイルを作成したことを思い出す。いまは、アップヴァージョンだと、IE8 であるが、IE8 はバグが多いとの評判である。また、IE7 にアップすることを止めた理由がいま思い出せない。既存のアプリケーションと合わないというのが理由ではなかったかと思うが、はっきりしない。Firefox をインストールするのがよいのかも知れないが、と色々考えています。IE8 にアップヴァージョンしても問題ないかどうか、どなたかアドヴァイス頂ければ幸いです。マシン・スペックは、WIN-XP Pro です。メモリは 1 GBだったと思います)。
それで Amazing Grace の動画・音楽であるが、幾つか見てみて(聞いてみて)、現在の処では、ジュディー・コリンズが1970年か1970年代に録音したとされるものが一番良いように思える。これは背景が動画というより、歌詞が効果的にゆっくりと現れるシステムで、200万回閲覧があります。この動画で、Amazing Grace の歌詞を具体的に知ったのですが、検索で調べると、次のようになっています(検索の結果を、表示される歌詞に変えています。この歌詞は間違いがあるようですが、一応この形で示します。正確な歌詞は、後に紹介しているウィキソースのテキストを参照してください。ジュディー・コリンズは実際にこのような歌詞を歌っているように聞こえます。me ではなく us とかです。また、we've が we'd になっていたり、releaved という辞書にはない動詞が出てきます。これは、relieved の間違いです。後述参照)。
Amazing Grace sung par Judy Collins
Amazing Grace How sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost but now I'm found
Was blind but now I see....
Twas grace that taught my heart to fear
And grace my fears releaved
How precious did that grace appear
The hour I first believed
Through many dangers Toils and snares
We have already come
Twas grace that brought us safe thus far
And grace will lead us home....
When we'd been there Ten thousand years
Bright shining as the sun
We've no less days To sing god's praise
Than when We'd first begun
Amazing Grace How sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost but now am found
Was blind but now I see....
歌詞大意 試訳 par Miranda Welrech
類い稀なる恵みよ、何と妙なる響きか
惨めな私さえも救ってくださった
かつて私は孤児だったが、見つけてくださった
かつて盲目だった、いま私には分かる……
私の心に恐れることを教え
数々の恐れから救ってくださった恵みよ
何と貴重なときであったか
恵みが現れ私が信仰を知ったときは
数知れぬ危難、辛苦と誘惑の果てに
我らは漸くに辿り着いた
我らに安息をもたらされた恵みよ
故郷へと我らを導く恵みよ……
一万年間、我らが故郷にあっても
恵みは太陽のごとく輝く
最初に歌い始めたときと同様
神を称えて我らはうたい続ける
類い稀なる恵みよ、何と妙なる響きか
惨めな私さえも救ってくださった
かつて私は孤児だったが、見つけてくださった
かつて盲目だった、いま私には分かる……
これは何とも云いようがないほど力強く、簡潔で美しい歌詞なのです。とても翻訳できないのですが、以上に大意として試訳を示しました(幾らか、特殊な解釈が入っています。I once was lost は、キリスト教の信仰の文脈では、「神から離れて道に迷っていた」ということになるのでしょうが、ジュディー・コリンズが歌っている歌詞の限りでは、「神」は確かに出てきますが、これを「キリスト教の神の恵み」と解釈する必然がないように思います。もっと普遍的な「救済の魂のうた」と読めます)。
(訳注:「 teach 」には、「教え諭す」という宗教的な用法があるのですが、この場合、「 teach + □ + to不定詞 」の形になっていると思います。releave という単語は辞書にはなく、ウィキソースでは、reliev'd となっています。しかし、release と relieve があり、どちらも似たような意味で、動画の画面に出てくる歌詞の綴りが間違っているのだと思います。しかしこの場合、どちらであっても、「 And grace my fears releaved 」というラインは、「And grace that relieved my fears 」と解釈されるので、「数々の恐れから救ってくださった恵みよ」という訳で問題ないと思っています。先には「恐れを教え」で次のラインで「教えから救った」というのは奇妙にも響きますが、「 Amazing Grace 」の存在そのものが「畏怖すべき」であり、そのことを知ることで、世界観が全面的に覆ることは恐るべきことであるが、しかしそれによって、同時に「数々の恐れから解放された」という意味なのだと解釈しています)。
これは、以下の Youtube のページにあります(このページをURLに入れておきます。そう思ったのですが、Site-URL も「http://」投稿禁止のようです。設定を一度確認しなければならないようです):
Amazing Grace - Judy Collins and the choir (1970 RARE!!)
> ttp://www.youtube.com/watch?v=PHpye0M34JQ
検索で調べると、次のサイトが出てきます:
> ttp://www.worldfolksong.com/songbook/masterpiece/amazing.htm
ここで、歌詞全体を翻訳していますが、個人的な感想では、キリスト教に偏って訳しすぎだと思います。キリスト教の信徒の方、またはジュディー・コリンズの歌では省略されているスタンザも含めて考えると、こういう意味に響くのかも知れませんが、訳としてあまり適切なものと思えません。「意訳」と断っていますが、追加している言葉がキリスト教的な敷衍説明になっていると思えます。例えば、最初のスタンザは次のように訳されています:
> Amazing grace how sweet the sound
> That saved a wretch like me.
> I once was lost but now am found,
> Was blind but now I see.
> アメージング グレース
> 何と美しい響きであろうか
> 私のような者までも救ってくださる
> 道を踏み外しさまよっていた私を
> 神は救い上げてくださり
> 今まで見えなかった神の恵みを
> 今は見出すことができる
あとの方で「神」が出てきますが、ここでは「神」などは出てきていません。「神の恵み」が今まで見えなかったのではなく、グノーシス主義的には、「グノーシスの開示=類い稀なる恵み」を知って、従来の世界観がすべて覆ったということです。「盲目だったが、いまは分かる」というのは、真実を知ったという感銘のなかで、発せられている言葉なのでしょう。しかし、この歌詞の作者はキリスト教徒だった。それ故に、奇蹟とそれに基づくグノーシスを「神の恵み」と後に解釈しているのだと考えるのが妥当でしょう。同じ経験(奇蹟との出会い)があれば、イスラム教徒なら「アッラーの恵み」と呼び、仏教徒なら「仏陀の救い」と解釈するでしょう。ヒンドゥー教信徒なら「クリシュナの恵み」とかになるでしょう。
アメージング・グレース(Amazing Grace)とは、「類い稀なる恵み」で、「グノーシス」と置き換えて差し支えないと云うか、こちらが正しいと私は思います。上の4行は、簡潔に、力強く、美しいまでに「照明体験」を歌っているというのが妥当です。それに対し、翻訳は、「キリスト教の神の恩寵」という解釈が先に入っているため、余計な言葉を書き加えているということになります。ジュディー・コリンズが歌っている歌詞なら、(おそらく)無神論者も含めて、どのような宗教や思想の人であっても、感銘し賛同し、この歌の感動に加わることができるのですが、上のように翻訳すると、キリスト教中心主義で、排他的な意味になるのではないかとも思います(投稿記事を少し書き直しました。これは再投稿です)。(以下は、ウィキソースにある、歌詞の原文です)
> ttp://en.wikisource.org/wiki/Amazing_Grace
「救い」の意味について書こうと思っていたら、Amazing Grace の歌詞の訳や解釈だけでも、かなりな長さになったのと、「救い」とは何かということを、一部分、上に書いてしまっているので、この話はここで終わりにします。というか、できれば「続き」で書いてみたいと思います。
* Miranda Noice Welrech * |
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| 2009/12/23 (Wed)/19:35:20
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[327] resp>326 |
Re:ベートーヴェン・「交響曲9」 他 |
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| [Reply] |
|
par Miranda Noice Welrech |
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先の投稿で、『ドゥイノの悲歌』の話をしていて、何か横に逸れたというか、突然にベートーヴェンの曲の歌詞になったので、もしかして誤解される方もいるかも知れませんので説明を加えておきます。
(このような書き出しで、かなり長い説明を書いたのですが、send を押すと同時に全部消えてしまいました。この掲示板の設定で、html タグは使用禁止にしていたのですが、「http://」で始まる行があると、「投稿拒否」となるようです。なるほど、こういう機能があると、スパム書き込みしようとしても、http://が入っているだけで、すべて書き込み以前の段階で阻止されるということですが、こんな機能は知りませんでした。……いままで、「http://」を書いても、有効ではないことを知っていたので、書いたことがなかったのです。なお、ここでは全角で「http://」を書いていますが、本来は半角です。しかし半角を書くと、投稿不能になるので全角にしています)。
それはとまれ、次のような4行のドイツ語の歌詞を先には引用しました。
> Freude, schöner Götterfunken,
> Tochter aus Elysium
> Wir betreten feuertrunken.
> Himmlische, dein Heiligtum!
これは、ベートーヴェンの『交響曲9』の「歓喜の歌」の始まり部分の歌詞です。丁度、ここの部分で、歌と曲が切り替わります。「友よ、そんな調子(音)ではだめだ」と突然に言葉が入り、そこからリズミカルに畳みかけるように、上の4行の歌がうたわれます。これに呼応して、歓喜を称える歌の行やフレーズが続き、「フロイデ(歓喜)」の歓喜の合唱に展開していきます。上の部分は、もっとも印象的な部分です。
では何故、『ドゥイノの悲歌』の話のなかで、急にこういう歓喜の歌が出てきたのかと云うことですが、生きることも死ぬことも、苦難の道であり、人のレーベン(人生)にはただ絶望しかないのではないのか。「苦難の道の果てに何かがありえるのか」と考えると、「苦難の道の果てには、歓喜が待っている」という思考が出てきて、「歓喜よ、聖なる楽園の娘よ、我らは喜びに満ちて聖なる土地・領域に進み行く」というような言葉が出てくるので、これはベートーヴェンの「歓喜の歌」だと思ったということです。
ドイツ語の歌詞を覚えているほど記憶力はよくないので、「ベートーヴェン 交響曲9」で検索すると、簡単に歌詞が出てきたので、これをコピーしました。歌詞の日本語での意味は、十年前か二十年前か、この歌をよく引用していた頃に訳した文章の解釈に従って訳文のようなものを造りました。従って、訳が間違っている可能性があります。
また。「精神の歌」とはドイツ語で Geistesgesang と云いますが、これはわたしの造語です(こういう言葉がすでに存在している可能性はありますが)。これは色々な意味が込められていたのですが、大まかには、一年の終わりにあって、過去を振り返り、実存の生きてあるありようを省みて、来るべき新しいときにおいて、未来を開く展望を歌おうと云うことで、昔は、年末に「精神の歌」という形の歌を書いていたことがあります。
今日というか昨日は、Youtube で色々と動画・音楽を見ていた(聞いていた)のですが、幾つか美しい曲を見つけたので、以下に紹介します。(この紹介で、「http://」を書いたために、投稿文章がすべて消えてしまいました)。最初にあるのは、ガブリエル・フォーレの『レクイエム』のなかの歌である「ピエ・イエズ、Pie Jesu」です。次は、Ave Maria で、女声の歌の動画レンダリングと男声の歌の動画レンダリングへのURLです。頭の「h」を外しますので、URLを窓に貼って、頭に「h」を追加するとリンクになります。
「ピエ・イエズ」はボーイソプラノのレンダリングですが、この歌はラテン語で歌われています。歌詞は: Pie Jesu, Domine, Dona eis requiem, dona eis requiem, Dona eis, dona eis, Sempiternam Requiem. というような歌詞が繰り返されています(この歌詞は、「優しきイエスよ、主よ、彼らに安らぎを与えたまえ、彼らに安らぎを与えたまえ、彼らに与えたまえ、彼らに与えたまえ、永遠の安らぎを」というような意味です。Ave Maria の方は、ドイツ語で歌われています。歌詞は一番下に書きます。なお、関連ファイルを見ると、他にも美しい「ピエ・イエズ」の動画などがあります。
Polskie Slowiki - Gabriel Fauré - Requiem "Pie Jesu"
フォーレ『レクイエム』「ピエ・イエズ」:ボーイソプラノ・レンダリング
> ttp://www.youtube.com/watch?v=_m1RHdkP1h4
Kings College Faure Pie Jesu and Agnus Dei
Kings Colege、「ピエ・イエズ」と「アニュス・デイ」ボーイソプラノ・レンダリング(こちらの方が、フォーレの元の曲に近いと思う)
> ttp://www.youtube.com/watch?v=VWMmolrId_4
The most beautiful rendition of Ave Maria I've ever heard
「アヴェ・マリア」女声ソプラノ・レンダリング(背景は風景・光)
> ttp://www.youtube.com/watch?v=aQVz6vuNq7s
A most beautiful song: Ave Maria (Schubert) - Andrea Bocelli
シューベルト「アヴェ・マリア」男声レンダリング(背景は聖画)
> ttp://www.youtube.com/watch?v=_6Qu15k24SA
Ave Maria ドイツ語歌詞
Ave Maria! Jungfrau mild,
Erhöre einer Jungfrau Flehen,
Aus diesem Felsen starr und wild
Soll mein Gebet zu dir hinwehen.
Wir schlafen sicher bis zum Morgen,
Ob Menschen noch so grausam sind.
O Jungfrau, sieh der Jungfrau Sorgen,
O Mutter, hör ein bittend Kind!
Ave Maria!
Ave Maria! Unbefleckt!
Wenn wir auf diesen Fels hinsinken
Zum Schlaf, und uns dein Schutz bedeckt
Wird weich der harte Fels uns dünken.
Du lächelst, Rosendüfte wehen
In dieser dumpfen Felsenkluft,
O Mutter, höre Kindes Flehen,
O Jungfrau, eine Jungfrau ruft!
Ave Maria!
Ave Maria! Reine Magd!
Der Erde und der Luft Dämonen,
Von deines Auges Huld verjagt,
Sie können hier nicht bei uns wohnen,
Wir woll'n uns still dem Schicksal beugen,
Da uns dein heil'ger Trost anweht;
Der Jungfrau wolle hold dich neigen,
Dem Kind, das für den Vater fleht.
Ave Maria!
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「ピエ・イエズ」とか「アヴェ・マリア」というのは懐かしいです。ベンジャミン・ブリトゥンの『キャロルの祭典』に収載されている曲には、非常に美しいものがあります。「子守歌(バルアロウ)」などがそうで、歌詞がたいへんに美しいです。昔は、これを「新年の挨拶」の言葉に使っていました。ブリトゥンの曲の歌詞が見つかったら、そのうちに紹介したく思います。
間もなくクリスマス(冬至祭)の季節です。精神の歌とは云いませんが、聖なる乙女にあって、我らの精神・魂が清らかな、安らかなものとなりますよう。すべてが暗黒の透明な波のなかに無として消えるとしても、「歓喜」の希望や、聖なる星の鳥のロゴスは永遠でしょう。それは最初からこの宇宙にはないため、消えることがないとも、永遠の未来にあって預言されているがために、消えることはないのだとも云えるでしょう。主の恵がありますように。
* Miranda Noice Welrech en StirrLizania * |
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| 2009/12/21 (Mon)/03:32:35
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[326] |
ドゥイノの悲歌 |
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| [Reply] |
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par Miranda Noice Welrech |
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『ドゥイノの悲歌』というのは、ライナー・マリア・リルケの連作詩のタイトルで、いまや内容を忘却してしまっている。しかし若い頃に読み、大きな感動を覚えた作品であった。いま一度、あの作品を通して読んでみたいと、今日に、先刻になって思った。あの詩は、天使の残酷さという話から書き出されていた。あるいは記憶が違っていたのかも知れないが、最初に天使が出てくるのは事実である。
そして、一番最後には、空に描かれた大文字についてリルケは語る。それは、確か、MUTTER という文字のはずで、「大いなる母」が我らの故郷を示しておられるというような内容だったように記憶する。ノヴァーリスの『夜の讃歌』と同じ結論に達しているのだと昔思ったことがある。リルケは、女友達のために、庭の薔薇の花を折り取ろうとして指に傷を受け、その傷が元で死去した。何か出来過ぎたロマンティックな話であるが、ノヴァーリスの臨終も、昔読んだ処では、弟がピアノで音楽を弾いているあいだ、ノヴァーリスはベッドで横になってそれを静かに聞いていたが、弟が気づくと、ノヴァーリスはすでにこの世の人ではなかったというような最後であった。
ノヴァーリスの死に方は、ロマン主義的だとも思う。他方、『水晶』という珠玉の作品を書いたアーダベルト・シュティフターの最後は、悲惨というのか、孤高というのか、「残酷な天使の訪れ」のような死であったとされる。シュティフターは癌に侵され、回復することもなく、激しい苦痛に苦悶する日々を送り、家人が目を離した一瞬に、カミソリを使って動脈を切り、苦痛から去って行ったとされる。わたしのなかでは、シュティフターはロマン主義の作家・詩人として捉えられているので、この死のありようは、また感慨が深い、あるいは強いインパクトを持っているのかも知れない(現在でもなお、存在するが、末期医療での苦痛の軽減方法がなかった過去では、癌の末期は、苦痛にのたうって死んで行くというのが定めだった。聖徳太子や天智、天武なども癌が死因ではなかったのかとされる)。
「残酷な天使のテーゼ」……天使は、地上の人間に対し非情であり、人を天国に導くのではなく、人を地に残して見捨てる存在としてある。あるいは、スクルージに対しマーレーの亡霊が語ったように、それぞれの人に応じて、異なる「使者」が訪れるのかも知れない。「幸福の天使」が死の床に訪れ、天国に導いてくれる幸いな人もいるのかも知れない。少なくとも、わたしは死にあって、天使などは訪れないし、訪れるとすれば、それは天使の残酷さを実感するためにわたしが構想する結果としての天使の顕現であろうとも思う。無論、この世に、数知れぬ「未知の奇蹟」がなお存在するということに、わたしは希望を失っているわけではない。わたしの短く貧しい生涯にあっては、奇蹟は起こりえないのがむしろ自然だというのが認識である。
いとも容易に奇蹟が起こるなら、それを奇蹟とは呼ばない。人間の精神や自我が均衡を持って存在していることこそがありふれた、しかし驚くべき奇蹟なのかも知れない。意識には「永遠的な成分」が含まれるという思想は、古代ギリシアから考えられていたと述べたのはエックルスである。「永遠的な部分」とは何なのか、エックルスは晩年に探求したが、答えは得られなかった。生きているあいだに得られる可能性のある問いと、答えのない問いがあるとも云うべきかも知れない。グルジェフの臨終の枕にあって、ウスペンスキーは「真理」を知っているなら教えろと迫ったという話がある。しかし、ウスペンスキーの問いに答えはなく、グルジェフは世を去って行った。仏陀は、答えがないことには答えがないということを知ることが心の平安への道だと説いたのだと考える。
これだと、ヴィトゲンシュタインの「語れぬものには沈黙せねばならない」という論理実証主義的な答えが正しいのかということになる。人間の「永遠の部分」とか、「天使の存在意味」とかは、答えが最初からないのだといえば、そこでエポケーの平安が来るのかも知れない。わたしは少なくとも「全能の善なる神」は否定する。超越的な善は、規定において、わたしのごとき塵がいかなる判断をくだそうと、関係のない存在である。それでこそ「超越的な全能者」である。
話が逸れて行く。『ドゥイノの悲歌』にいま一度戻ってみたい。リルケは、ピカソが描いた旅の道化師の絵に深い感銘を受けて、あの詩を書いたとされる。ピカソの絵は、世界から忘れられたような、うら悲しい存在としての旅の道化師あるいは曲芸師の一座の人たちを描いている。人間のありようとは、このような姿なのであるというのが、リルケの感応した真実なのであろう。人が人としてあるということはどういうことなのか。日常生活の多忙さと煩雑さ、わいせつさのなかで人は忘却して行く。薔薇色の人生は少数の恵まれた人にはあるが、その人たちにとっても、生きてあることは、辛いことである。辛さを自覚して、それを受け止めているとき、死が訪れるとき、そのようにして世を去った人の死のありようは感動的である。しかし、それは奇蹟の一種である。誰でもが与れることのできるものではなく、そのような運命の美は、実存として実に痛々しい生き方を引き受けるという意味であり、精神の強さなくして、そのような運命を受け入れるのは難しい。
わたしが述べているのは、キューブラー=ロスが述べたように、死を前にして、死の向こうに希望を感じて、安らかに世を去って行く少数の人のことを念頭している。死の障壁が巨大であるに応じて、死を超えたプラトゥの意味は光を帯びる。『イワン・イリイチの死』で、イワンは最後に「死はなかった」と感じる。「死はない」……単純な真理であるが、それを理解するためにどれだけの苦しみを超えなければならないのか。「死はない」ということは「死はある」ということである。
ハイデッガーではないが、人間はどこまで云っても自己の根拠がない。故郷がない、つまり「この世に投げ込まれた孤児である」。そして人間の本質的な構造は、逆に、自己の根拠への憂慮(ゾルゲ・関心)だというのであるから、人間はどこにも救いのない存在になる。ナチスの大虐殺を、宇宙の運命だと達観して笑って受け入れていたハイデッガーという人間の恐ろしさと偉大さ、そしてなおかつ人間的な矮小さから来る人間の存在の業に畏怖があるとも云える。ヤスペルスは死後の世界があり、善なる神、暗号としての神の隠された救済の構造が宇宙にあると考えて世を去って行ったのだと思えば、ハイデッガーの死の展望は、戦慄するばかりに暗く、恐ろしく、しかし真実の光があった。
おお。友よ、このような調べではない。そうではないのだ:
Freude, schöener Göetterfunken,
Tochter aus Elysium
Wir betreten feuertrunken.
Himmlische, dein Heiligtum!
喜び、そは麗しき神の火花
エーリュシオンの聖なる娘
我らは歓喜のほのおに酔いしれて
気高き爾の聖なる地へと進む!
いまひとときは、歓喜の歌に我らの心を委ねよう。ときがいかに残酷であろうと、我らの魂には永遠の霊の火花が輝く。大いなる母、銀河の女神は、我らに歓喜の祝福を贈りたまう。死は喜びのなかには存在しない。我らは喜びとひととき交わり、我らの翼は再び、無限の星きらめく暗黒の空間へと我らを導く。生はどこにあるのか。死はどこにあるのか。
いまこの時に、「精神の歌」の余韻を知れば、我らはすべてを忘却してもなお、「精神の歌」は残っている。我が故郷よ。暗黒のなかの無限の透明な波よ。優しき銀河のトフテルよ。いまも臨終のときも、我らに恵を与えたまえ。 |
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| 2009/12/20 (Sun)/21:57:39
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[325] |
最近のこと色々 |
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| [Reply] |
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par Miranda Noice Welrech |
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最近のこと「色々」と云っても、色々と云えるほど色々とないのです。整理せずに思いつくまま書くと、左腕というか左手というか、二ヶ月ほど前から痛みがあり、鎮痛薬を飲んでいるのですが、数日前は、何錠飲んでも痛みが治まらないので飲んでいると、6錠ぐらいか7錠ぐらい使ってしまった。
何が原因で左腕が痛いのか分からないが、こういうのは医者に相談しても分からない。過去数回、右手首とか、肩とか痛みとか色々あって神経内科とかあれこれ調べてもらっても原因が分からない。池波正太郎の小説に出てくる針医藤枝梅安は不気味であるが、漫画としてさいとうプロが描いている梅安はあまり不気味なところがないので、ああいう仏様のような針医がいれば、見てもらいと思うが、なかなか難しいようです(池波の原作を漫画にされると、かなりイメージが影響されるので困ったことだとも思う。さいとうプロは鬼平犯科帖も漫画にしているが、あの長谷川平蔵は、原作とは違っている。原作では幾らか小太りのふっくらした感じの人物であるが、漫画になるとだいぶ変化している。大体、鬼平と梅安が同じ顔や体格……梅安の方が幾らか巨体にはなっているが……というのは、どうもおかしい)。
漫画の「鬼平犯科帖」は、原作にない話を勝手に作っているようである。例えば、「かわうそ先生」の話は、池波の作品にこういう話が確かにあるが、それは鬼平とは関係のない話で、無外流の祖とされるかわうそ平内こと辻平内の話を、勝手に時代を繰り下げて鬼平のシリーズに入れているように思える(辻平内の敵討ち助太刀の話は、別の短編集に入っている)。また、藤枝梅安の話も、原作から離れて勝手な話になっている。剣客小杉が白川公の守り役になるとか、そんな話は原作にはまったくないのである。また、梅安には弟子はいないのであり、いないからこそ仕掛け人としての人物造型があるが、漫画では勝手に弟子を作ってしまっている。
ただ、池波正太郎自身の作品でも、同じような筋の話が繰り返し出てくるような気がするので、大衆時代小説作家はこういうもので良いのかも知れない。昔、ある人と話をしていて、鬼平の話は続きすぎだというようなことを話した記憶がある。最初の二巻、三巻ぐらいまでは、「金箔付きの盗賊の大親分」というような、「金箔付き」という独特の形容句があった。しかし、人気が出たためか、どんどん話を追加で書いていった結果、その人が言っていたが、江戸には盗賊が溢れかえっているのか、というような状態になってしまった。捕まえても捕まえても、盗賊団が現れるというのは、やはりおかしいと思う。長谷川平蔵というのは歴史的に実在した人物だと分かっているので、余計に疑問が出てくるのである。(しかし、18世紀の江戸は人口百万人を超え、世界でも有数の都市であったのに、その治安や行政、民政を担当していた役所が町奉行所で、奉行所は、与力・同心あわせて200人ぐらいの規模の組織だったので、これでどうやって治安を維持したのか、江戸は平和だったということなのだろうか。……無論、町役人など、町民の自治組織や職人のギルド組織などはあったが、あまりに役人の数が少なすぎる)。
と……何の話なのだろうか。
最近の人生に何か思うことがあったかというと、一年半前に、『灰羽連盟』のTVアニメを知ったことがある。これについて評論を書いていたが、どうも内容が纏まらない。また、今年の夏頃だったのか、『ワンダバスタイル』という馬鹿馬鹿しいアニメを知って、DVDのセットとかを購入したりした。
それらとは別に、『薔薇の名前』のDVDを見つけたので、これを見てみたという話は書いたように思う。『風の谷のナウシカ』の豪華DVDセットとかも持っているはずであるが、こちらも一枚もののDVDを別に買っていたが、見ていない。『セーラームーン』のDVDも実写版を除いてすべて持っているが、こちらは馬鹿馬鹿しくて見る気が起こらない。しかし、『ウェディングピーチ』の方は、日本語版、英語版、スペイン語版とある。スペイン語版は残念なことに、「再生不能」というファイルが多くて、少数の話しか見ていないが、非常に面白いです。英語版は、英語に声が吹き替えられているのですが、大体、声優として日本語版の声優と似た声質の人を選んでいる。また、話し方も日本語版に準拠しているようで、谷間百合は英語でしゃべっても、どこか優雅で上品でおかしさのある話し方をしている。しかしスペイン語版は、声優がまったく日本語版と関係がない。また、何を喋っているのか聞き取れないのであるが、セリフが異常に多いと思う。ひっきりなしに喋っているようで、どうも日本語のセリフとは違うことを云っているのではないかと思える。スペイン語は、比較的に母音が明瞭な言葉で、固有の人名などでは、日本語の人名をそのまま使っても不自然にはならない。しかし、スペイン語の名前に変えてしまうので、高低アクセントが付いて、後ろから二番目の音節に大体強調アクセントが来るので、非常に、奇妙な響き……エキゾチックな響きになる。「リモーネ様!」とか「柳葉先輩!」とよく呼ぶが、これがスペイン語版だと、多分「シニョール・リモーネ」「シニョール・ヤナギーバ」と聞こえる。また「モモーコ・ハナサーキ」「ユーリ・タニーマ」「マルガリータ」(ひなぎくは、この名前で呼ばれている)とかいうのを聞いていると、日本人の名前には思えない。スペイン語の名前かと思う。そう思って、キャラクタの眼の色や髪の色を見てみると、ウェディングピーチが、青い眼にピンクの髪、ひなぎくが、茶色の眼に緑色の髪、谷間百合が緑の瞳に茶色の髪で、日本人には見えない。顔や容貌は東洋人であるが、眼の色や髪の色は、日本人には思えない。ああ……もう一つ、スペイン語版では、「アフロディータ」と呼んでいる。
何の話をしているのか分からなくなっている。この掲示板は一発勝負で、後で訂正とか、プレビューとかできないので、いささか不便なのであるが。とまれ、ここまでの雑談で登録します。
* Npice Mirandaas * |
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| 2009/12/15 (Tue)/00:48:14
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[323] |
Memoire de la Rose |
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| [Reply] |
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par Miranda Noice Welrech |
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タイトルを書いて、Memoir だったか、Memoire だったか迷った。辞書で調べると、Memoire でeが付いており、また最初の/e/は、アクサンテギュだった。意味は「薔薇の思い出・記憶」であるが、これは要するに、ウンベルト・エーコ原作の映画『薔薇の名前(The Name of the Rose/ Il Nome della Rosa)』の思い出の意味である。
先月だったか、いや先月は11月なので、10月かあるいは9月だったか、本を探していると、映画「薔薇の名前」のDVDがあった。未開封で、無論、どこかで何時か(最近数年以内)に買ったものであるが、一度も見ていない。映画「薔薇の名前」は、記憶にあるだけで、LD,DVDを持っているはずで、見つけたDVDは、先のDVDとはまた別であるので、媒体が三つあることになる。
二十年振りか、二十五年振りか、DVDを通してであるが、この映画を見てみた。最初見たとき、画面が異様に暗く、記憶にあった映画館で見た映画はもっと明るかったのにおかしいと思った。幾ら中世の修道院をル・ゴフの助言などを元に復元したからと云って、屋外の情景まで暗いというのはおかしい。一通り見た後、どうも、ディスプレイの明るさ設定を暗くしているのではと思って、3レベルほど明るくしてみると、大体、記憶にある映画と同じ感じになった。
DVDは明らかに、記憶にある映画館での上映と違っているところがあった。一番違っているのは、最初の情景で、それに続く場面も記憶と食い違っている。しかしそれ以外は、ほぼ記憶にあっている(途中で、幾つか、上映のときと違うというのはあったが)。
このDVDは日本語字幕も出るように設定できるが、特に字幕設定などを行わなかったところ、言語は英語、字幕は英語という表示になった。そこでお、一番最後のメルクのアドソのセリフを字幕で見てみると、She was only earthly love of mine. But I never knew and ever learned .... Her name. と云っていることが分かった。「彼女はただ一人の地上的な(俗世の)恋人であった。しかし私は、知ることはなかったし、また確認することもできなかった……彼女の名前を」こういう構成だと、「薔薇の名前」の「名前」や「薔薇」とは、名の知れぬ少女が薔薇で、その知ることの無かった名前が「薔薇の名前」ということになる。ただし、原作ではそういう解釈はただちに出てこない。
この映画は、セルゲイ・ボンダルチュクの『戦争と平和』と共に、非常に大きな影響をわたしは受けた。それは結局何だったのだろうかと思う。一つは、音楽が非常に美しかったことだと思う。
そこで、サウンドトラックの映画のCDはないかと調べてみると、確かにあったようであるが、英語のアマゾンでも、この商品は扱っていない。そこでドイツ語とフランス語のアマゾンを調べると、中古品で、出品されていて、無闇な値が付いている。1万円を超える値である。2万円ぐらいしたのもあった。一番安いのが、アマゾン・ドイツのマーケットプレースの出品で、これが確か30EURだった。大体4500円弱程度で、相対的には安いと言える。しかし、送料が、15EURもする。結果的に45EUR,600円と少しかかった。しかし、いい音楽集だと思う。
残念なのは、映画では、7種類か8種類のグレゴリオ聖歌がうたわれていたが、それらが収録されていないことである。
「薔薇の名前」のDVDと、オリジナルサウンドトラックのCDの話になってしまったが、他にも色々と思い出があり、それらは、まったく別の話に繋がっている。しかし、この文章はここまでととりあえずしておこう。
* Miranda Noice elrech en Stirrlizania * |
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| 2009/12/02 (Wed)/01:46:18
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[322] |
空しき夢のいつか過ぎ去り |
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| [Reply] |
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par Miranda Noice Welrech |
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人の生きてあることは、ただ空しさにしか到達しない。そうではないと思う、または私念する人も数多くいるであろう。そのような人は「生きていることのいまの充実」……過去・未来への期待や評価を含めてのいまの意味……にあって生きることを楽しめばよいことである。生きてあることが空しくはないという人は、それで幸いである。
生きてきたことの記憶把握が夢に似ているのではなく、REM睡眠での「夢」とされるものが、生きてきたことの記憶了解の反映的なエイコーンなのである。わたしの自我意識は、どこから生まれてきたのだろうか。
人の思考力は畢竟、存在する世界と現象を了解するには不十分である。どれぐらい不十分であるのかも不十分にしか分からない。50億光年彼方に別の銀河星雲があるとされる。それは現在の理解では、50億年前近くの姿である。一つの惑星……この地球……においてさえ、50億を超える自我意識と生がある。それらの自我意識も、あと1世紀か2世紀のうちにはすべて消えてしまう。どこへ行くのか。知りようもなく、どこへも行かないのだとも言える。消えたものは、どこかに行ったのではないだろう。過ぎ去ったものは、どこかに過ぎ去ったのではなく、なくなってしまったのである。
むしろトランスツェンデントな理法なり秩序模様が、消え去ったものを刻印し継続させているならば、そちらの方に畏怖がある。
> ジルベール・コクトー、わが人生に咲き誇りし最大の花よ
> Gilbert Cocteau, le plus grand fleur dans ma vie
そうであっても、それが何を意味し得るのか。意識は、幻影を見る能力を持つ。ラツィオーの了解というものも、意識に構成されるミラージュである。外立の真実開示も同様にミラージュである。ミラージュとは幻であるが、それはレーヴと同じ意味で、レアリテはまたミラージュである。エックハルトの無の光はミラージュであり、レーヴはしかし、無限の真理の彼方、永遠に通じている可能性がある。これが「イーオン」であると直覚したとき、それはイーオンではなくレーヴの幻想である可能性がある。レーヴとメタレーヴあるいは彼岸のレーヴはどこに区別があるのか。
わたしには分からない。何もかも分からない。
そして尋ねることは、あなたは今でもなお「死」を畏れているのか。それもまた定かに分からない。ただ思う。半世紀後にはわたしは生きていない。わたしはどこかに行くわけではなく、消えて行く。自我意識の記憶把握は、暗黒の意識欠如から始まり……あるいは、断絶があるのかも知れないが……一切の暗黒へと帰って行く。闇(スコティア)は光を理解しなかった。そうなのだと思う。霊と実存は分離するであろう。霊は、実存のなかにはない。意識の総体的可能性のなかには「ない」のである。あるものはレーヴでありミラージュである。
実存は闇に去って行く。ル・ネアンが意識の本質であるというのは皮相な見方かも知れないが、真実ではないかと思う。
わたしは死を待ち望んでいる。霊と実存を分離する希望は、わたしは消えてしまいたい為である。光の希望は一つ残っているであろう。いつの日にか、わたしは甦る。それはわたしではない。
生きてある限り、現象は苦悩である。痛みであり悔恨でしかない。
夢は過ぎ去り、夢は消える。わたしの魂の実存を受けとめてほしい。それは闇のなかで無として消え去る。
永遠の幼年時代、永遠の少女時代は光のなかにあるであろう。
それはおそらく超越的なレーヴである。わたしのレーヴは、闇に消えて、わたしはこの世の苦悩と苦痛から解放され、安らぎを得ることを望む。闇である死よ、あなたはわたしの救いである。
永遠が永遠に過ぎ去ったあと、奇蹟の時代が訪れるであろう。
わたしはどこにもいないが。永遠は、なにかの意味であるのだろう。
* en aionois toon aionoon eis teen skotiaan * |
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| 2009/11/29 (Sun)/03:19:38
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